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葛西氏は、現在の宮城県三陸沿岸から岩手県南部にかけての地域を統治した大身の国人領主。
葛西氏は、下総の葛西庄より起った名字で、豊島康家の孫の清重が葛西三郎を名乗り葛西氏の初代になった。

治承4年(1180)8月、源頼朝は平氏打倒の挙兵をするが石橋山の戦いで大庭景親に敗れて安房国へ逃れた。9月、頼朝は小山朝政、下河辺行平、そして清元・清重父子に書状を送り、特に清重に対しては「忠節の者である」として海路でも直ちに参じるよう求めた。頼朝が千葉氏、上総氏の軍勢を加えて隅田川まで進軍、清元・清重父子は、10月3日にこれに参じた。

葛西氏と同じ秩父氏一族の江戸重長は、石橋山の戦いで大庭景親に味方しており、頼朝の参陣の要求にもなかなか応じなかった。このため頼朝は清重に命じて重長を誘殺しようとまで図った。しかし、同じ平姓秩父氏一族の畠山重忠、河越重頼も参陣したことで、江戸重長も服そうとしたが、頼朝の怒りは収まらず、重長の所領を没収して清重に与えることを決めた。

しかし清重は、「一族の所領を賜わるのは義に反する」として拒絶した。頼朝は激怒し、清重の所領も没収すると脅したが、清重は「士は高潔を尊びます。受けるべきものでないものを受けるのは義にあらず」と断固として拒絶したという。頼朝もこれに感じ入り、重長を許した。

これらのことから清重は頼朝を深く信頼したのかもしれない。治承4年(1180)、頼朝は常陸の佐竹氏を攻めた帰途、葛西郡の清重の館に泊まった。清重は妻女に頼朝の御膳を備えさせた。この時代、「御膳を備える」とは、食事のほか一夜のもてなしも行うことを意味していた。現代では理解しがたいことだが、当時の貴種信仰の時代、自分たちの旗頭である源氏の御曹司に対しての最大の敬意を表したものだったろう。

元暦元年(1184)8月、源範頼の平氏討伐の遠征に従軍し、兵糧の調達に難渋して遠征軍は苦戦したが、九州に渡って平氏の背後の遮断に成功し、清重は北条義時、小山朝政らとともに頼朝から特に慇懃の御書を賜り大功を賞された。元暦2年3月、平氏は壇ノ浦の戦いで滅亡した。

文治5年(1189)清元・清重父子は奥州藤原氏討伐に従軍、同年8月の阿津賀志山の戦いで清重は三浦義村、工藤行光ら7騎で陣を抜け出し山を登り抜け駆けの先陣を果たし、奮戦して武門の誉れと讃えられた。

奥州藤原氏滅亡後の9月、頼朝は論功行賞を発表し、清重は勲功抜群として胆沢郡、磐井郡、牡鹿郡など数か所に所領を賜り、更に奥州総奉行に任じられ、陸奥国の御家人統率を任された。平泉保内に検非違所という政庁を築くことも許されるなど、事実上の奥州の国主としての政治権力を頼朝から委任される形で与えられた。

文治6年(1190)正月に起きた奥州藤原氏遺臣による大河兼任の乱でも千葉胤正とともに平定に尽し、「殊なる勇士なり」と讃えられた。反乱鎮定による安定をみて陸奥国を離れ、以後は幕府の重臣として鎌倉に詰めた。

しかし、建久10年(1199)正月、頼朝は相模川に架けた橋の落成式に出かけて落馬し、あっけなく亡くなってしまった。後継の将軍には嫡男の頼家が立てられたが、まだ18歳と若く、有力御家人たちを抑えることはできなかった。幕府内での主導権争いの幕が、切って落とされることとなる。しかし、清重はその後40年もの間、沈着冷静に行動して敵をつくらず、「幕府宿老」の地位を保ち続けた。

頼朝の死後、清重は幕府の宿老として北条氏から重用され、建保元年(1213)の「和田義盛の乱」では、北条義時を助けて乱の鎮圧に活躍、「承久の乱」に際しては大江広元とともに鎌倉の留守を守り、元仁元年(1224)伊賀光宗の叛乱にも小山・結城氏と協力してこれを鎮圧した。実朝が暗殺され、源家将軍が滅亡してのちも、清重は権謀術数渦巻く鎌倉幕府草創期の権力争いに巻き込まれることなく、侍所の重臣として北条執権下の幕政に重きをなした。

しかし、元仁元年(1224)北条義時、翌年には北条政子や大江広元といった幕府創業世代が死去し、義時の子北条泰時が執権となり、それまでの将軍家との個人的な主従関係であったものが、御家人の筆頭の北条氏を中心とした政治にかわっていった。泰時の孫北条時頼が執権になると、宮騒動や宝治合戦が起き、北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。

このような状況の中の暦仁元年(1238、清重は没した。その後、葛西氏三代清経のとき、葛西氏は本格的に石巻城を本拠として築造し下向したものと思われる。

石巻城跡は、北上川河口の日和山上にあり、標高60m、東西・南北共に250mの規模を持つ。山頂の鹿島御児神社周辺が主郭部と考えられ、南と東は急崖になっており、北側には切掘り跡が認められる。西側が緩斜面になっており、恐らくは西側に二の郭、三の郭と続いていたものと思われる。しかし後世の手がだいぶ加えられ、周囲は宅地化されているためそれらの遺構は見られない。

葛西氏は、奥州合戦の恩賞として、陸奥国気仙、江刺、胆沢、磐井、牡鹿、本吉郡を所領として領していた。その中でも石巻は北上川の河口に位置する交通の要衝であり、日和山はそれを見渡す最良地である。

葛西氏が下向した後は、奥州総奉行としての立場を生かして、周辺の熊谷氏や山内首藤氏らを切り従え南北朝時代には、五代宗清・六代清貞は、陸奥国司北畠顕家率いる奥州勢の主力として南朝方で活躍、その後も勢力を拡大し、葛西氏は大崎・伊達氏と並ぶ有力大名となっていく。