スポンサーリンク

天喜5年(1057)11月、黄海(きのみ)の戦いで大敗した源頼義は、多賀城に戻り、関東、東海、畿内の武士にまで働きかけを行い、麾下の兵力の増強に努めた。しかしその間も、安倍氏は衣川の南にまで勢力を伸ばし、独自に徴税を行うなど、その勢いを拡大させつつあった。

康平5年(1062)春、源頼義は陸奥守としての任期が切れ、後任に高階経重が着任した。しかし、頼義の働きを是としない朝廷に対して頼義は思うところがあったようで、配下の郡司は新国司の経重に従わず「何のなすすべなく帰洛」し、直ちに解任された。朝廷内は混乱し後任候補の辞退もあり、結局、頼義が陸奥守に再任された。

これまでの鬼切部の戦いや黄海の戦いでの苦戦を強いられていた頼義は、安倍氏と姻戚関係にあり、これまで中立を保っていた出羽国仙北の豪族清原氏の族長清原光頼に、臣下の礼の形を取ってまでも参戦を依頼し、また「奇珍の贈物」を続け参戦を依頼したともされる。

清原氏は天武天皇の皇子である舎人親王の後裔とされるが、その中で、出羽清原氏は、元慶の乱で京都から来た在庁官人であったとも考えられている。その後、安倍氏と同様に、蝦夷と同化しながら出羽に勢力を築いたのだろう。

いずれにせよ、清原光頼は康平5年(1062)7月、頼義の申し出を聞き入れ、7月に弟武則を総大将として、一万の軍勢を派遣した。官軍の主体は清原軍となり、七陣に編成された官軍で、源頼義の率いるのは、およそ3千の第五陣のみで、他の陣はすべて清原軍だった。しかしそれでも、これで官軍は一気に優勢となった。

8月中旬、玉造郡を発した官軍は現在の一関の長者原付近に到り、ここで小松柵から打って出た安倍宗任とその叔父良照の軍と戦闘になった。清原軍と坂東の精鋭を集めた頼義軍は強く、劣勢になった安倍勢は小松柵に引き上げたが、官軍はそのまま小松柵を攻撃し激戦となったが小松柵は炎上し、宗任は敗走した。

翌9月、安倍貞任は頼義の本営に奇襲をかけた。このとき官軍は粮食が不足し、長期戦を避けたがっており、好機到来とばかりに、全軍を挙げて応戦し、貞任が退却をはじめると、追撃の手をゆるめず、そのまま石坂柵・衣川関と次々に落としていった。

この衣川の戦いは、「古今著聞集」に以下のように記されている。

衣川の館、岸高く川ありければ、盾をいただきて甲に重ね、(源義家らは)筏を組みて攻め戦ふに、貞任ら耐へずして、つひに城の後ろより逃れ落ちけるを、一男(いちなん)八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、
「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、
「衣のたては ほころびにけり」
と(義家は)言へりけり。貞任くつばみをやすらへしころを振り向けて、
「年を経へし 糸の乱れの苦しさに」
と付けたりけり。そのとき義家、はげたる矢をさし外して帰りにけり。

同月11日には、官軍は現在の金ケ崎町の鳥海柵に入り、安倍軍の残した醇酒(かたざけ)を全軍で飲み乾し、鬨の声を上げた。勢いに乗った官軍は、15日には、安倍氏の本拠の現在の盛岡市の厨川柵を包囲した。

この柵の西北には大きな沢があり、また川の岸は高く、道がない。柵の上には櫓を構えて精鋭を置き、厳重な構えで、落とすのは容易ではなく、両軍はにらみ合いになった。源頼義は、この膠着した戦線を打開すべく火攻めをとることとした。数日後、幸運にも強風が吹き、官軍は柵内に無数の火矢を放った。火はあっというまに柵内を覆い、熱さに堪(たま)りかねて飛び出してきた安倍軍は、ことごとく官軍に討ち取られた。

やがて藤原経清が生け捕りにされた。鬼切部の戦いや黄海の戦いで経清によって煮え湯を飲まされた頼義は、これを深く憎み、経清を処刑するのに、苦痛を与えるためわざと切れ味の悪い鈍刀でその首を斬らせたという。

また安倍貞任は、官軍の槍に刺され瀕死の重傷を負い捕縛され、大楯に乗せられ、頼義の前に担ぎ込まれた。頼義は、貞任に対して罪状を問責したが、貞任はそれに答えることはなく、そのまま首を斬られて絶命した。

やがて宗任、家任らが投降してきて、ここに前九年合戦はついに終わった。宗任らは伊予流罪となり、貞任・経清の首は都に運ばれ、大勢の見物人が押し寄せるなか、獄門にかけられた。また経清の妻(安倍頼時の娘)は、七歳の清衡を連れて、清原武則の長男武貞の妾とされた。

源頼義は、康平6年(1963)2月の除目では、正四位下伊予守となったが、頼義にとってこれは不本意なもので、陸奥守として奥羽の地に君臨しようとする夢は打ち砕かれた。代わりに、清原武則が朝廷から従五位下鎮守府将軍に補任され、奥六郡を与えられ、清原氏が奥羽の覇者となった。

その後、清原氏内部に争いが生じ、それが永保3年(1083)からの後三年の役となっていく。