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秋田県仙北地方の雄の小野寺氏は、下野、小野寺村を発祥とする。山内首藤義通の子の義寛は、京都において滝口武士を勤めた後、源為義に従って坂東を転戦し、戦功によって下野小野寺七ケ村に所領を得、小野寺城を築城したとされる。当時,小野寺の地の東は小山氏の、西は足利氏の勢力圏だった。

治承4年(1180)平清盛の専横に対して、源頼政が以仁王を奉じて挙兵した際に、小野寺義寛の子の道綱は平氏方に属し、宇治川の戦いでは先陣を争った。しかし、下野では、保元の乱や以仁王の挙兵などでの戦功の恩賞を巡って争いが生じており、その年の8月、源頼朝が伊豆において兵を挙げると、道綱は下野に戻り、平氏から離れて源頼朝の麾下となった。

この時期、河内源氏の源義広は、源行家と共に頼朝に面会したとするが、所領のことなどで頼朝と意見を異にし、合流することはなく常陸南部を中心に独自の勢力を維持していた。しかし寿永2年(1183)、義広は下野で2万余の兵を集めて頼朝討滅を掲げ常陸より下野へと進軍した。この時、小野寺道綱は小山一族とともに出陣して義広を破った。その後、道綱は、頼朝から厚い信頼を受けるようになり、その後の源平合戦では、源範頼の麾下に属し軍功をあげ、文治5年(1189)の奥州征伐にも出陣し、戦後出羽の雄勝郡に領地を得た。

小野寺道綱は、頼朝の死去したのちも、幕府の元老として鎌倉に居住し、出羽雄勝には、庶子の重道を派遣し雄勝を治めさせたと思われる。承久3年(1221)の承久の乱では、後鳥羽上皇は北条義時征伐の宣旨を下し京都守護伊賀氏を討ち取った。幕府軍は京都に大軍を送り乱を制圧した。道綱も一族を率いて、北条泰時の軍に属して上洛したが、宇治川の戦いにおいて戦死した。

その後,宝治合戦(1247)で三浦氏が滅んだ後、三浦泰村の次男・三浦景泰が、姉の夫の小野寺道業の庇護を受けて小野寺経道を名乗り稲庭に入ったと云う。

経道の子・忠道が惣領となり、その弟・道直は西馬音内を本拠地として西馬音内氏の祖となり、同じく弟・道定は湯沢を本拠地とし湯沢氏の祖となり、仙北の地に一大勢力を築き、戦国大名の道を歩み始める。

稲庭城は雄物川の支流皆瀬川右岸の南西側に延びた比高約180mの尾根頂部を本郭とし、二の郭、主郭、郭群からなる典型的な中世山城である。

東、西、北側は急斜面で、大手口の西麓から二の郭間は、旧斜面をつずら折れの大手道で繋がれ、途中には段郭が配されている。現在、二の郭跡には三層の模擬天守の「今昔館」があり、そこまでは観光用のスロープカーが運行されている。

二の郭は南北に細長く、南端には櫓台と思われる土段があり、物見櫓などがあったと考えられる。この二の郭の東側のピークが主郭になり、主郭へ向かう尾根道は、その鞍部に三重堀切があり、二の郭と厳重に遮断されている。

戦国初期の小野寺泰道の代に沼館城に支配拠点を移すまで、小野寺氏の本拠城として機能した。その後も小野寺領の重要拠点として、小野寺氏一族が城代として入城しこの地を支配していたが、文禄4年(1595)の最上義光の雄勝進攻で稲庭城は攻められ落城した。