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南北朝期、小野寺氏は南朝方に属して活躍したようだが、その動向は明らかではない。足利将軍義満は陸奥・出羽を関東府の管轄下に入れ、陸奥・出羽は関東分国となった。その結果、小野寺・安東・戸沢氏らは関東公方に従うことになった。

十五世紀初め(1400年~)、この時期は、三戸城を拠点とする南部氏が奥羽山脈を越えて出羽に進出を図った時期にあたる。当時小野寺氏は道有が当主だったが、道有は京都扶持衆として京都にあったようで、南部氏の小野寺領侵攻を許し、寛正6年(1465)3月、享年37歳で死去した。

小野寺氏の一族で、稲葉城の泰道は、その後、4年間戦い、激戦の末に仙北地方より南部氏を追い出し、奪取された領地を回復、小野寺氏の惣領権を握ったようだ。

泰道は京都の将軍家との接触も深め、足利義教や義政に馬を献ずるなどして室町幕府に接近し、勢力拡大を図っていったようだ。

泰道の没後は、子の稙道が跡を継いだ。稙道は、横手盆地を中心として勢力を拡大し、湯沢城を拠点に、稲庭・川連・三梨・東福寺・西馬音内・山田・田代・高寺など雄勝郡内の各郷に一族を配し、戦国大名化していった。さらには、平鹿郡沼館城を足場として、南は最上郡の鮭延城から、北は雄物川下流の豊島郡(現在の河辺郡)までを配下に加え、六郷・本堂・戸沢の各氏に対しても手を伸ばした。

しかし、天文15年(1546)、稙道は家臣団の権力争いに巻き込まれ、家臣により湯沢城に追い詰められて暗殺された。稙道の子の輝道は羽黒山に逃れ、庄内の大宝寺氏に保護された。その後、大宝寺氏の助勢を受けて、弘治元年(1555)に沼館城に復帰した。

輝道はその後横手城を本拠とし、横手城はこの輝道、その子の義道により改修整備された。小野寺氏は戦国大名として発展、最上氏や戸沢氏、安東氏らと激しい抗争を繰り返すことになる。

横手城は羽州街道と秋田街道の交わる交通の要衝にあり、西は横手川、北は明永沼、東は奥羽山脈を天然の要害とした朝倉山に築かれている。現在、秋田神社のあるところが本丸であり、その西側に二の丸が配されている。

城は石垣を用いず、土塁と切岸による山城で、斜面には土崩れを防ぐ土止めと敵が這い登ることができないように韮を植えたとされ、韮城とも呼称された。本丸跡、二の丸跡、武者留、大手門跡、七曲りなどが横手市指定文化財となっている。二の丸跡に、郷土資料館と展望台をかねた模擬天守が建設され、現在は公園として整備されている。

小野寺氏は輝道・義道の時代に、戦国大名としての体制をほぼ整え全盛時代を築きあげた。城下町が整備され、横手は商業・交通上の要衝となった。

小野寺氏は、南は最上地方へ進出し、永禄期(1558~70)には、最上郡の金山城・鮭延城に重臣を配し最上氏と戦った。北は仙北地方とそれに続く安東氏との対立であった。仙北地方への侵攻は永禄の中ごろからといわれ、大曲の前田氏を臣従させ、苅和野・神宮寺方面を併呑し戸沢氏を圧倒し、この間に六郷氏や本堂氏を臣従させたようだ。

しかし、南方の最上義光の勢力が次第に拡大し、義光は義道を圧迫するようになってきた。こうして小野寺氏の威勢にも翳りが見え始め、それは、天正9年(1581)に真室川の鮭延氏が離反したあたりからで、次第にその版図も縮小し始めていった。