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明徳4年(1393)南北朝合一がされると、南朝の雄であった八戸南部氏の力も弱まり、第8代当主の南部政光は隠居し八戸根城から七戸城に移り、南部氏の惣領権は三戸南部氏に移っていったようだ。そのようなことから、長慶天皇も、八戸から七戸へと移り、さらに南部氏とは直接的には関わらない、浪岡の北畠氏の下へと移っていった。

長慶天皇は、後村上天皇の第一皇子で南朝の第三代天皇だが、南朝方が凋落していく中での天皇で、関連資料が乏しいため、その即位すら疑問視されてきた。しかし、大正時代になり、その即位は動かない事実とされ、正式に第九十八代天皇として皇統に加えられた。

父の後村上天皇の代には、公武合体を目指し北朝方との和議が何度も持ち上がったが、長慶天皇は徹底抗戦派だったために、一度もその形跡がない。

後村上天皇の代に北朝との和睦交渉に尽力した楠木正儀が、正平24(1369)に、ついに北朝方に投降したのは、徹底抗戦派だった長慶天皇との意見の相違が原因と考えられている。

文中元年(1372)には、九州南朝軍の拠点である大宰府が、九州探題今川了俊の軍略により陥落した。弘和3年(1383)に長慶天皇は和平派の後亀山天皇に譲位し、実質的には南北朝の争いは終わった。

しかし、長慶上皇は、北朝の打倒、南朝の復活を強く求めていたようで、各地に残る伝説は、それを裏づけしているように思える。特に、八戸、七戸、浪岡と続く伝承は、その時代背景と合わせ、信ぴょう性が高いと思われる。

この地に伝えられる伝承では、元中2年(1385)、に長慶上皇が身を寄せていた浪岡の館が南部信政に攻められ、上皇は傷を受けて供奉の人々とともに、新田宗興が守っていた、弘前市相馬の紙漉館に逃れてきたという。

その後上皇は、この地で反撃の機をうかがっていたが、応永10年(1403)に崩御し、山上に葬られたという。60歳だったと云う。この地で生まれた皇子の盛徳親王は、この山上に塚を築き天皇を埋葬し、権現の跡地1万坪に新たに寺を建て、上皇廟堂と称した。

この旧相馬村には、長慶天皇にまつわる多くの伝承や遺跡、古文書等が残されており、天皇を守護した家臣の名が水木在家、里見、杉沢、宮舘、折笠といった村内の地名となって残っている。

この地には、長慶天皇の皇后で、伊勢宮菊理姫(菊子姫)の墳墓に建てられたとされる白山堂がある。

菊理姫は、新田宗興の養女で、宗興が伊勢で討ち死にした後、天皇と供に各地を転々とし、(1385)、浪岡から紙漉館に移り、この地で盛徳皇子が誕生した。

この地で皇后は、紙を梳く技術を村人たちに教えたと伝えられ、この地の地名の「紙漉沢」の由来になっている。

その後皇后は、応永23年(1416)、逝去した。その墓標に榎を植え、白山権現を祀ったとされる。

この菊理姫(菊代姫)の墓とされる塚が、浪岡城址入り口にもある。青森市の浪岡は、南朝の北畠氏が、南朝衰退後も北朝に頑強に抵抗しながらも次第に押され、南朝方の有力領主達の保護を受けながらみちのくを北上し最後に到った地だ。南朝三代目の長慶天皇が、皇太子の時期まで含め、この地になんらかの関わりを持ったことは十分に考えられる。

長慶上皇の中宮とされる菊理姫は、一説には、伊勢北畠氏の祖である北畠顕能の長女であると伝えられ、長慶上皇に従った新田氏一族の新田宗興の養女だったと云う。菊代姫は皇妃として、津軽の地まで上皇に付き従ったといわれている。

この「菊理姫の墓」も伝承であり、史跡に指定されているものではない。そのたたずまいも、小さな円墳上に祠があるだけのものでわびしいものだが、この地の人々は数百年もの長きにわたって、その「史跡」を保存し、伝説を今に繋いでいる。

この浪岡の西光院境内には、長慶天皇皇子の寛光親王の墓と伝えられる五輪塔もある。

寛光親王は、長慶天皇と北畠守親の娘との間に生まれた皇子と伝えられ、その称号は、一品式部卿征東大将軍で、浪岡で崩御したとされる。寛光親王の死後は、一説によればその子の寛基王のとき、三戸郡泉山に移り、泉山氏を称するようになり、その後、南部氏の客将となり、後に南部氏に仕えたと云う。

津軽には、南朝方の北畠氏が入ったこともあり、南朝三代目の天皇の長慶天皇に関わる伝承が多く残る。それが史実かどうかを確認する手立てはないが、皇子や后の墓や、その従者たちの伝説など、生活感のある伝承が数多く残っている。少なくとも、長慶天皇に由来する何らかの史実があったことは確実だろう。