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崔慶禄は、大正九年(1920)、忠清北道陰城に生まれた。当時、日本国内では徴兵制が敷かれていたが、日本としてまだ歴史の浅い朝鮮半島では徴兵は行われなかった。

しかし昭和十二年(1937)、日中戦争が始まり、翌年の昭和十三年に国家総動員法が施行されると、日本陸軍は、朝鮮半島で志願兵を募集することとなった。日韓併合以降しばらくは、朝鮮人は日本に非協力的だったが、近代化が進み、生活が改善するにつれ協力的になり、この頃には朝鮮人の大半は日本に協力的であり、むしろ日本人として同化し始めていた。

この日本陸軍の志願兵募集に対しては、朝鮮人の日本軍入隊のための血書提出が流行し、昭和十四年(1939)には45名、昭和十五年(1940)には168名が血書を提出している。後に第五~九代韓国大統領となる朴正煕も血書を提出し、満洲新聞に掲載された。

崔慶禄は、昭和十三年(1938)、日本陸軍に志願し、志願兵一期生となった。歩兵第七十八連隊で下士官候補生試験に合格し、その後、陸軍士官学校の試験にも合格した。

昭和十六年(1941)、日本海軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争が始まり、日本陸軍は、イギリスの植民地だったマレー半島に進出した。しかし翌年の昭和十七年八月上旬に始まったガダルカナル攻防戦以来、連合軍は反抗を開始し、南西太平洋方面において急速にその勢いを増し始めた。

日本は、最重要拠点のラバウルを確保するため、大本営は、朝鮮龍山の陸軍最精鋭部隊の第二十師団を急遽、南西太平洋戦線に投入することになった。

命令を受けた、同師団は、早くも翌年の昭和十八年一月には、東部ニューギニアのウエワクに上陸、更にマダンに進出して迫り来る米豪軍を迎え撃つ態勢を整えた。この第二十師団の一員に、崔慶禄がいた。

崔慶禄は当時、同師団麾下の歩兵第七十八連隊に所属していたが、その人柄と成績の優秀さを見込まれ、陸軍士官学校入学を推薦されて、既に合格の内定通知を受けていた。本来であれば、帝国陸軍の根幹である将校を養成する士官学校への入学は、全てに優先することであり、この生還を期しがたい最前線への移動を避けることができた。しかし、崔慶禄は、日朝の大義と朝鮮民族の誇りの為に「日朝の大義に生きるべし、」として敢えて戦地に赴いたという。

「日朝の大義に生きる、」これを崔慶禄が自らの信念とするに当たっては一人の日本軍人との出会いがあった。その人物は小野武雄陸軍大佐で、同師団の作戦参謀だった。小野武雄大佐は崔慶禄を見所ある青年と聞き、昭和十七年に師団司令部で面談し、それ以降交流を深めるようになった。

小野大佐は明治三十一年(1898)生まれ、小中学時代を通じて常に首席を通し、山口中学時代には、のちの首相である岸信介や佐藤栄作とは親友だった。佐藤栄作は、後に大臣、首相になってからも、小野大佐の命日には、秘書を通じて墓参を欠かさなかったという。

小野大佐は、温情溢れる武人であったといい、最初に崔慶禄に会った時も「内地人が朝鮮民族に随分すまんことをしている。困ったものだ、」と話し「日朝は、一視同仁で、手を携えて立派な国造りをしなければならない。お互い喧嘩などしている時ではない、」と語りかけ、崔は「一視同仁といってもお互い歴史習慣からそれぞれ特異な事情もあるので、なかなかそうはならないでしょう。しかしお互い努力はすべきだと思います、」と答えたという。

小野は士官学校の受験を励まし「君は将来は朝鮮民族の指導者となるべき人物だ。その資質は充分にある。これから以後は何事も親と思って遠慮無く相談にきなさい、」と懇切丁寧な言葉を掛けた。崔はその後何度か話すうちに小野の誠意を感得し、本当の父とも想うようになった。

東部ニューギニアに赴いた小野大佐は、このとき崔は、合格していた陸軍士官学校の入学のため、内地に残っていたものと思っていた。崔が敵捕虜尋問の通訳として師団司令部に出頭し、戦地にいることを知り、大層驚き、「お前は陸士に入らず何故戦地に来たのか、」と強く叱りつけたという。しかし崔の「日朝の大義、」の考えを聞き、その後は会うたびに「必ず生きて帰って日朝の大義にいきよ、」と諭したという。

しかし戦況は日々深刻さを増していた。昭和十八年初頭より、米豪軍は東部ニューギニアの要地を次々と奪回していた。米豪軍は、同年9月、ラバウルと東武ニューギニアを結ぶダンビール海峡の要衝に上陸作戦を敢行した。日本軍はこの地を敵との決戦場と定め、第二十師団を配置し、十月、攻撃を開始した。

この戦闘は、制空権を完全掌握した米豪軍が、爆撃と戦車によって攻撃するのに対し、第二十師団は、肉弾による切り込みを持って対抗するしかなかった。彼我の戦力差は十倍以上あったにも関わらず、翌年一月の三ヶ月間にわたって、米豪軍をこの地に釘付けにした。

崔慶禄は、11月の第二次総攻撃で、連隊の斬込隊長となり、部下19名を率いて三度の切り込みを敢行した。三度目には敵の機銃陣地からの猛射で部下18名が戦死、自身も全身に八箇所の銃弾を受けて瀕死の重傷を負った。ただ一人生き残っていた出田与一上等兵が、自身も腹部に被弾していながら、動けない崔を担ぎ、あるいは引っ張り、三日がかりで日本軍の第一線まで運んだ。▲

二人が最前線に辿り着いた丁度其の時、偶然にも小野大佐が前線視察に来ていて崔を発見。小野大佐は「絶対に死んだらいかん、しっかりせよ、」と激励し、小野大佐は自分の雨合羽を着せて、恩賜の煙草を口にくわえさせて、「この男を殺したら陛下に申し訳が立たない。絶対に助けなければならない、」と軍医を呼び二人の後送を支持した。崔と出田上等兵は、直ちに衛生隊に運ばれ、応急手当を受けた。

しかし、この時すでに、出田与一上等兵の負傷した腹部はすでに腐敗しており、遂には絶命してしまった。崔は小野大佐の計らいもあり、マニラの陸軍病院に入れられ、そこで、手厚い治療を受け、八箇所全てが致命傷ともいえる重傷を克服し、遂に九死に一生を得、その後も更に小倉、別府、東京の陸軍病院に送られて完全に回復するまで充分な手当を受けることができた。

一方、第二十師団は、その後も終戦まで米豪軍と激闘を続け、その中で、小野大佐も壮絶な戦死を遂げ、第二十師団に所属した将兵は合計2万5千5百91名だったが、復員したのは8百11名のみだった。

その後、陸士入校待機状態であった崔は、昭和十九年(1944)、豊橋予備士官学校を卒業して少尉に任官した。

戦後は韓国に戻り、韓国軍少尉として第一連隊の創設に参与し、 昭和二十三年(1948)には第十一連隊長として済州島に赴任した。昭和二十五年(1950)六月、朝鮮戦争が勃発すると、臨津江の戦闘で勇戦し、同年七月、首都師団参謀長となった。昭和三十六年(1960)には、陸軍参謀総長となり、その後昭和五十六年(1980)には駐日大使となった。その間、崔の机の上には常に小野武雄大佐と一緒に写っている写真が飾られており、常々「自分は韓国を愛するが故に親日派である、」と言明し、韓国世論を覆う反日派からの攻撃にも決して屈することはなかったという。

崔は後年、「旧日本軍が厳正なる軍紀のもと、上下信倚し、進んで職責に殉ずるの美風には今なを、感嘆を禁じ得ないものがあります。あのフィンシハーフェンの当時、私は一斬込隊長、しかも韓国の出身です。然るに、私の伝令、出田上等兵は、自らも重症を負いながら、私を背負い敵の重囲を突破して救い出し、そして、自らは到頭死んでしまったのです。あのように最悪な状況でもなを、軍規が守られていたことはさすが精鋭師団でした、」と回想している。

昭和五十六年(1981)の十月、駐日大使として着任すると、最初に宮中へ参内して、天皇陛下に信任状を捧呈した。このとき、帝国陸軍第二十師団の斬込隊長だった崔慶禄は、かつての大元帥陛下に会い、万感胸に迫るものがあったのだろう。またそれは昭和天皇も同じ思いだったのだろう。其の時の会見は10分の予定が40分にも及んだという。しかし崔は、この時のことを誰にも漏らしていない。

昭和六十三年(1987)、崔は産経新聞のインタビューに対し「日本の政治家に”何故日本の軍隊は自衛隊なのか。名称を変えて日本国軍とすべきではないか”と質問したが、時期尚早だとの答だった。私も日本の平和憲法を知っていいる。しかし自衛隊は誰が見ても軍隊である。その実態をごまかし”自衛隊”というのは極端に言えば詐欺じゃないか。侵略はゆるされないが、敵に攻撃されたとき、堂々と備えるのは、国家として当然の権利であり、義務である。どうして世界の一部諸国及び一部国民の顔色を窺う必要があるのだろうか。…アジアの強国日本が、自衛隊を”日本国軍”と名称変更し、堂々と軍事力を強化し、アジアの防波堤になることを期待する、」と話した。

しかし、崔は、この文章を理由に、それまでの親日的な言動と合わせ、反日派より激しく攻撃され、失脚した。その後、平成十四年(2002)九月、八十一才でソウル市で没した。