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この7月10日、朝鮮戦争の救国の英雄、白善燁(ペクソンヨブ)が死去した。九十九歳だった。

韓国では同時期に、自身の猥褻な写真を秘書の女性に送り付けるなどしたセクハラ容疑で告発された、「人権派?弁護士」出身のソウル市長が自殺した。このソウル市長は、韓国の反日従北の代表的政治家で、ムンジェイン大統領とも近く、大統領候補にも挙がっていた。そのソウル市長は、セクハラ容疑に触れることもなく、名誉あるソウル特別市葬が行われた。

その反対に、朝鮮戦争での救国の英雄ともいえる白善燁は、献花台の設置も拒否され、国家の功労者や朝鮮戦争の戦死者など17万人が眠っている国立墓地の顕忠院への埋葬も「場所がない」という理由で拒否され、さらには、国立墓地にある親日派の墓を掘り起こし、強制移葬を認める「親日派破墓法」の成立に向け動いており、「もし白氏が国立墓地に埋葬されたら、墓を暴くしかない」という主張もされている。白善燁がいなければ、現在の韓国はすでになかったはずだ。反日従北の韓国は、冷遇どころか、その英雄的事績すら消し去ろうとしている。

ここでは、白善燁の死を悼み、これまでも親日派として不当な扱いを受けてきた白氏の事績を紹介する。

白善燁は、1920年11月、平壌近郊で、比較的裕福な中規模地主の家系に生まれた。しかし六歳の時に父が死亡し一家は困窮し、平壌に移り住み、母と姉が働き家計を支えた。

白善燁は、学費無料の師範学校に入学し、卒業後は、母方の祖父が軍人だったこともあり、満州国に渡り、奉天の満州国軍官学校に進学し、1941年12月、満州国軍官学校の優秀生徒として卒業した。

陸軍少尉に任官した白は、1943年2月、間島特設隊に配属され、鴨緑江、豆満江上流部一帯で、中国共産党が主導する中国人、満州人、朝鮮人により構成された抗日ゲリラの討伐に従事した。1944年春には、熱河省の八路軍掃討作戦に参加、旅団長賞詞を受けた。1945年8月15日、満州国軍中尉として終戦を迎え平壌に戻った。

金日成らのパルチザン派がソ連の後押しで権力を掌握し始め、共産パルチザンの討伐任務に就いていた白にも危険が迫り、1945年12月に平壌を離れ38度線を越えた。

ソウルでは、韓国軍の前身である南朝鮮国防警備隊に入隊し中尉に任官され、釜山で第五連隊の創設に従事、連隊長となり中佐となった。

1947年12月、第三旅団司令部の参謀長となり旅団編成に従事した。1948年10月、南朝鮮労働党にオルグされた軍部隊の反乱、麗水・順天事件が起こると、軍内の左派を除去する粛軍運動に従事した。

1950年6月に朝鮮戦争が勃発した。開戦直前の南北の軍事バランスは、北が圧倒的に有利だった。韓国軍は、総兵力10万6000を有していたが、北が多数送り込んでいたスパイや工作員、それらによるゲリラ攻撃などに労力を割かれ、訓練は不十分だった。また、米韓軍事協定により、重装備はほとんど施されておらず、戦車なし、砲91門、迫撃砲960門、練習機22機を有するのみだった。

これに対して、北は総兵力19万8000、ソ連製を中心とした戦車240輌、砲552門、迫撃砲1728門、イリューシンやアントノフなどのソ連製を中心とした航空機211機を有していた。また、中国人民解放軍で実戦経験を積んだ、朝鮮系中国人部隊が編入され始めて、優れた練度が維持されていた。

1950年6月25日、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始され、約10万の兵力が38度線を越えてきた。宣戦布告なしの奇襲攻撃だった。6月27日には、北朝鮮軍はソウルに迫った。南北の軍事バランスに差がある中で、北朝鮮軍の奇襲攻撃を受けた韓国軍は、絶望的な戦いを続けた。白は第一師団の師団長として、緒戦においてソウル西翼の臨津江で四日間の防御戦闘を行った。

ソウルに北朝鮮軍が迫る中、市民の移動計画はなく、なんらの対策も講じられなかった。しかしこの27日早朝、李承晩大統領は、水原に遷都を決定しソウルから脱出した。この李承晩の脱出により、それまで楽観的な報道のみを聞かされていたソウル市民は、初めて首都の危機を知り、市民は避難路を求め漢江人道橋付近やソウル駅に殺到した。

そのような中、現地の爆破指揮所には、漢江橋爆破命令が出され、命令系統の混乱もありそれは実行された。この時、約4千名の避難民と車両が漢江人道橋を渡っていた。この漢江人道橋爆破事件によって、約500から800名と推定される避難民が犠牲となり、40余両の車両が大破し多くの人員が負傷した。

白の第一師団は、この時まだ戦闘を継続中だったが、漢江の人道橋が爆破され、陸軍本部との連絡も途絶した中で、白は、困難な後退を指揮することになった。漢江を渡河し、水原(スウォン)に集結した時、第1師団の兵力は半減していた。

圧倒的な北朝鮮軍の火力の前に、韓国軍は撤退を重ね、釜山に追い詰められた。白の第一師団も、各所で戦い大きな被害を出しながらも善戦したが、その後、第8軍の命令で8月2日夜から8月3日にかけて倭館(ウェガン)付近の洛東江沿岸に移動し、釜山橋頭堡の守備についた。

特に多富洞の戦いでは、北朝鮮軍3個師団に対して不退転の陣地を築き、アメリカ第27連隊と共同してこれにあたった。釜山の西側では、韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃の前に危機的状況にあった。白善燁は、この時はマラリアを患い高熱を発し、病院で治療中だった。白は病院を抜け出し、散らばっていた元日本兵だけを集め、ねぎらいの言葉をかけ、鼓舞し、「俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」と兵たちの先頭に立ち突撃した。

この攻撃で、四八八高地を北朝鮮軍から奪還し、そこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせ、北朝鮮軍を潰走させた。これは、朝鮮戦争中に師団長が突撃をした唯一の場面だった。これらの戦いで、韓国軍の戦意を疑っていたアメリカ第27連隊マイケレス連隊長は、この姿に感激し、以後のアメリカ軍と韓国軍の信頼度が増したという。

白の第一師団を除き、韓国軍の士気は低く、指揮官を始めとして前線から敵前逃亡することが多くあり、中共軍や北朝鮮軍は、韓国軍をターゲットにして攻撃することで、容易に国連軍の前線を崩すことができた。さらに、国連軍が入ってからは、韓国軍にはアメリカから最新鋭の兵器が供与されていたが、韓国軍が逃亡する際に、それらの高価な装備品が師団単位で放棄され、敵の手にわたることも多かった。

そのような中で、白の第一師団は、1950年12月の中共軍の第二次攻勢による国連軍の撤退戦では、後衛として殿(しんがり)をつとめるなど、国連軍からも信頼されていた。

朝鮮戦争終結後は、陸軍参謀総長、合同参謀会議議長などを歴任し、韓国軍の近代化に努めた。軍を退役後は、外交官として中華民国・フランス・中近東各国・カナダ大使を歴任。帰国後は朴正煕政権で交通部長官に就任し、ソウルの地下鉄建設、また1970年のよど号ハイジャック事件の解決に尽力した。

日韓国交正常化30周年にあたる1995年、日本国勲一等瑞宝章を受章、2013年、アメリカ第八軍名誉司令官に任命。2015年、国防大学で最初の名誉軍事学博士学位を受けた。

しかし白善燁は、盧武鉉政権時代にすすめられた親日派弾劾運動で、反民族特別法により、親日人名辞典に記載され、日本の韓国植民地統治に協力した親日派としてリストアップされ、不当な扱いを受けていた。

韓国民それぞれの主義主張は別にして、日本は、韓国の近代化には一定以上の寄与をし、太平洋戦争時は朝鮮人のほとんどは朝鮮系日本人であり、当時の若い男子の多くが日本陸軍に志願し、連合軍と戦ったのが歴史の真実だ。それを、韓国を戦勝国としたところから、屈折した「反日」が始まり、偽善者を崇め、韓国の救国の英雄たちをも貶める、韓国自体が、忘恩背徳の国になりつつある。実に「歴史を見ない者に未来はない」である。