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十和田湖、八郎潟、田沢湖の三つの湖にかけての壮大な伝説の中の八郎太郎に対するもう一方の主役が南祖坊といえる。

南祖坊の祖父の関白藤原是実は無実の罪で奥州に流され、許されぬまま没し、父の是行は、この糠部郡の馬渕川べりの斗賀に住み着き、名を藤原宗善と改めた。宗善は馬の扱いが得意で、如何なる荒馬も宗善の厩に入ると悪癖が直り、名馬となったという。

宗善はこの地の長者の娘の玉子姫と夫婦になり、何不自由なく暮していたが子がなく、そのため神仏に祈願し子を授からんと、観音堂に籠り、再び都へ帰参し関白職を得るような器量ある男子を授け給へと一心不乱に祈った。

満願の夜、宗善の夢枕に神人が現れ、金扇を夫人玉子姫に授け、忽ちその姿は消えてしまった。夫人の玉子姫は間もなく懐胎し、玉のような赤子を生んだが、是行の思いとは異なり女の子だった。それでも夫婦は喜び慈しみ育てた。

しかし、宗善は、都に帰り藤原家を再興する思いを捨てることができず、そのため名を南祖丸と付けて、男装をさせ男子として育てた。南祖丸は、当時博学の和尚と言われた七崎村の永福寺に弟子として入り、手習い学問を教わった。昼夜勉学に励み、12歳の時にはすでに師に勝っているといわれた。

南祖丸は,師の勧めもあり、仏の道を歩むこととなり、五戸永福寺の月志法印の弟子となり南祖坊と名乗り修行した。その才能は非凡なものがあり、月志法印も舌を捲き感嘆するほどで、13歳の春には、神力を得るために紀伊の熊野へ入った。

熊野では一心不乱に修行に励み、また諸国を行脚し、その法力により多くの人々を救った。この間、熊野三社に詣でること三十二回に及び、ちょうど三十三回目の熊野詣での時、三七日社前に通夜した満願の夜、夢枕に神人が立ち、「この草鞋を穿きこの杖の向くままに山々峰々を巡り、草鞋の断れたる所を汝の住家とし、弥勒三会の神人が出世を待つべし」と言い残した。

南祖坊は夢より醒めて自分の枕頭を見れば、鉄の草鞋と荊の杖が一本置かれてあった。南祖坊は歓喜の涙にむせびながら、日本全国の霊場を廻り、道法礼節を説き、病に悩める者があればこれを救い、功徳を積み累ねながら行脚の旅を続けた。18歳で故郷を出て以来、60余州をまわり修行の旅で過ごし、両親の墓を拝し供養するため、奥州斗賀村に戻った。すでに白髪の68歳になっていた。

その後、斗賀村の十和田神社に宿り、お告げに従いこの十和田神社でワラジを結び、錫杖を杖に十和田湖へ向かった。

この十和田の地で、ついに南祖坊の鉄の草鞋は断れ、この地が熊野の神人からのお告げにあった南祖坊のついの住家になった。しかしこの十和田湖には、このとき、秋田のマタギであった八郎太郎が姿を変え、龍となって住み着いていた。

南祖坊は、十和田湖のほとりの岩山に座り経文を唱え始めると、八郎太郎は八つの竜頭を持つ大蛇に化身し湖面にその姿を現し、南祖坊に挑んだ。静かであった湖は急に荒れ狂い、雷が鳴り響き、山々が鳴動し、それは凄まじい光景となった。

戦いは七日七晩にわたり続き、その戦いで十和田湖から溢れ出た大量の水が、物凄い勢いの鉄砲水となり、奥入瀬渓谷を削り取り現在のような渓谷にした。南祖坊は、力を振り絞り、法華経の経典を八郎太郎に投げつけると、経文の文字の一字一字が鋭い剣となり八郎太郎に突き刺さり、その血は湖面と崖を真っ赤に染めた。

この激しい戦いの最中に、雲中より天帝の声が聞こえた。「この地は、熊野権現が南祖坊に与えし地なり。八郎太郎は八高嶽(八甲田大岳)をその住まいとなさすべし、必ず疑う事なかれ」としこの戦いを収めた。八郎太郎と南祖坊は、この天帝のお告げを聞き戦を止め、八郎太郎は八高嶽に家来の八竜を移し、自らも十和田湖から去った。

南祖坊は、その後、十和田湖へ入寂し、青龍へと姿を変えこの湖の主となり「青龍大権現」として祀られた。


実在の人物名などから、三湖伝説の時代背景は平安時代後期と考えられる。また南祖坊の由来は、当時、隆盛を極めていた熊野修験道にあるようで、この十和田湖を巡る争いは、修験道の宗派争いがモチーフにあると考えられる。

ただし、この十和田湖での戦いは、火山の噴火を彷彿とさせるもので、この三湖伝説は、十和田噴火での、実際に起きた自然災害を表していると思われる。十和田湖火山は、915年、2000年来最大とも言われる大噴火を起こしている。

南祖坊と八郎太郎の七日七晩の戦いで、稲妻を投げ合ったり、法力を駆使したりの壮絶な戦いは、まさに十和田湖火山の噴火の様子を表していると考えられる。

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