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福島県喜多方市の金川寺には、その由緒として八百比丘尼の伝承が残る。八百比丘尼の伝承は、全国各地に残っているがこの地には次のように伝えられている。

人皇四十二代文武天皇の御世(697頃)、諸国には凶変が続いて起こり、帝はこれに大変心を悩ませていた。この帝の忠臣で、秦勝道という者がいたが、これを嘆き、天下泰平となるべき施策を帝に奏上したが、奸臣にこれを遮られ讒言され、かえって帝の怒りを受け、和銅元年(708)、会津更級の庄に流罪となってしまった。

しかし村人は、勝道の仁徳を慕い、やがて勝道は、村長の娘と夫婦になった。養老2年(718)、正月元旦に一女が産まれた。この姫は千代姫と名付けられ、父母の寵愛は大変に深かった。

この頃、村人は庚申神を信じ、よく講を持っていた。勝道もこの講に加わっていたが、ある時、庚申神が老翁に姿を変えその講に加わった。その翁が、次の講は自分の所に来るとよいという。其の講の当日、駒形山の麓、権現堂渕にくると、その水底に家があると云う。村人らは怪しみながらも老翁に誘われついて行くと、そこは竜宮浄土のようなところだった。

たいそうなもてなしを受け、九穴の貝をいただき元の渕に帰ると、村人はいただいた九穴の貝を気味悪がり皆渕に捨ててしまった。勝道だけは、これは異境の宝物であると思い、捨てずに大切に持ち帰った。

帰ると千代姫が土産を乞い、勝道は懐より大切に持ち帰った九穴の貝の包みを与えた、千代姫は喜びこれを残らず食べた。それ以来不思議なことに、姫は年をとることがなく、年を追うごとに才芸に優れ、聡明、叡智、万物を見通せるようになった。

やがて父勝道は、姫に人生の行く末のことを教え諭しながら病でこの世を去った。母もやがてこの世を去り、村人は姫に婿を探そうとしたが姫はかたくなにこれを拒み、悲しみの中に盛者必衰のことわりを深く感じ、髪を落とし法衣をまとい尼となった。そして念仏三昧、諸国を遍歴し諸所で奇跡をあらわした。

千代姫が500歳をすでに越えていた後嵯峨帝の御世(1242頃)に疱瘡が流行し、寛元4年(1246)勅命を受けて都において諸疫退散の祈祷を行った。病は悉く消え去り、帝はいたく感じ入り、妙蓮尼と称号を贈り、紫衣を与えた。

その後三十余年の後の弘安3年(1281)会津に帰り、父母の菩提を弔い松峰山金川寺を建立した。弥陀、聖徳太子の尊像を自ずから刻み納め、又、自らの像を作し、村民に「常に我が名を唱える者は、短命を転じて長命ならしめん」と約した。この像を一度拝礼するものは無病福寿にして願いはすべて成就すると伝えられる。

この八百比丘尼の話は、佐渡や若狭を中心に、全国各地に存在する。その話は、本筋はほぼ同じだが、若狭の伝説では、不老長寿の霊能を得たのは人魚を食したためで、会津のそれは九穴の貝を食べたためとなっている。その他、比丘尼の植えた杉や椿、屋敷跡、洞穴など具体的な事物に結び付き、様々に伝えられている。

秦氏は、秦の始皇帝の末裔で、応神14年(283)、百済から日本に帰化した弓月君などが祖とされる。秦氏と秦の始皇帝との関りが、八百比丘尼の不老長寿伝説に関わっているのかもしれない。また、秦勝道の父親と考えられる秦河勝は、聖徳太子に仕えていたとされ、この伝説の中の、「八百比丘尼が弥陀、聖徳太子の尊像を自ずから刻み」は、秦氏との関係からのものだろう。

中世には、熊野比丘尼が絵解きをしながら各地を巡遊していたが、八百比丘尼を名のる集団も同様に各地を巡っており、この伝説が広まったと推測される。文献では、室町時代に若狭から八百比丘尼が京都に現れ、評判になったことが記されている。

会津地方には、日本に仏教が伝来したとされる時期より古い時期に、仏教文化が伝えられていたとされ、この伝説の八百比丘尼の父が秦氏であることも、会津の地に伝えられた仏教との関連があるのかもしれない。

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