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七ツ森は、宮城県仙台市の北部の大和町にあり、標高300mから500mの、7つの山の総称である。

この七ツ森の生い立ちについては、朝比奈三郎についての民話が伝えられている。

昔、加美郡に朝比奈三郎という力持ちの大男が住んでいた。あるとき、弓の稽古をするため、的にする山を作ることにした。

そこで大きな土を運ぶための背負いかごのタンガラをつくり、現在の大崎市鹿島台町町の原っぱから、タンガラいっぱいに土をいれ、七回ほど土を運び、現在の加美町まで運んだ。

途中、一回づつ休んだときに、タンガラから土がこぼれ、その土が固まって七つの山ができた。それが今の「七ツ森」で、この時土を掘ったところが「品井沼」、三郎が歩いた足跡が「吉田川」になったと言う。また、その時の的山が矢喰山(現在の薬莱山)で、一番あとにタンガラの残りでできた山がたんがら森といわれるようになったという。

東北地方には各地に「手長足長」という巨人の民話が伝えられ、特に鳥海山周辺に伝えられる「手長足長」は、三崎山から、手は鳥海山のてっぺんまで届き、足は飛島までひとまたぎできたという。それがこの地では、狂言や歌舞伎などにも取り上げられ、その剛勇ぶりが誇張された形で表現されていた、朝比奈三郎と結びついたのだろう。

朝比奈三郎は、鎌倉幕府の有力御家人の和田義盛の三男の朝比奈義秀のことと思われる。三郎の母は、木曽義仲の妻であり、甲冑を身につけ女武者として義仲に従った巴御前という説もある。

和田義盛は、北条義時と対立したが和田合戦で破れ討ち死にし、一族は各地に逃れた。朝比奈三郎は討ち死にしたとも逃れたとも言われ、その消息は不明である。三郎は、剛勇無双の誉れが高く、様々な伝承が残っている。
「源頼家が相模小坪の浜で遊んだときには水泳の妙技を見せ、鮫三匹を捕らえて人々を驚かせた。」
「鎌倉の鎌倉七口の一つの朝比奈切通しは、三郎義秀が太刀で一夜にして切り開いた。」

狂言や歌舞伎などでは、その剛勇ぶりは誇張され、スーパーマン的に表現されている。
「朝比奈三郎を地獄の小鬼どもが嘲笑した。これに腹を立てた三郎は鬼を追いかけて大河を渡ると、そこに地獄の城門がそびえていた。三郎はこの城門を押し破り地獄を征服し、地獄にあるすべての酒と山海の珍味を出させ、鬼どもに舞を舞わせた。最後には閻魔大王を力でねじ伏せ、天国までの道案内をさせた。」

七ツ森伝説も、恐らくは後世の者が和田合戦で敗れた朝比奈三郎を惜しみ、七ツ森の山容を伝えるために、 手長足長伝説に三郎の剛勇を重ね合わせて物語にしたものだろう。

またこの地は伊達政宗のお狩場であったらしく、七ツ森の笹倉山の山頂には、政宗お狩り場の道標が設置されている。また薬師如来が祀られており、次のような話が伝えられる。

伊達政宗は天正19年(1590)と元和9年(1622)に、笹倉山で鹿狩りを行った 。 しかし獲物は全く獲れず、政宗は短気を起こして、この薬師如来を鉄砲で撃ち壊したという。現在も、この笹倉山の本尊の御神体には、包帯が巻かれているとされる。

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