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2012/05/14

福島城を後にして、山王坊遺跡、春日内観音堂と廻り、高台にある安東氏ゆかりの「唐川城跡」に来た。この城は、南部氏に攻められた安東氏が、福島城から退いた城と伝えられる。
説明板の位置には東屋が設けられ、どうも城跡に見られる荒々しさはない。説明板によると、堀で3つに区画された郭があり、大きな井戸跡もあると云うのだが、山に分け入る道は見つからない。この地だけでは城跡としてはどうも腑に落ちないが、それでもここからは山麓の大沼と十三湖や日本海が見渡すことができ、海路の監視には最適であることから、「理想的な立地」との説明板に取り合えず納得した。

安東氏はエミシとのつながりも深い一族で、平泉藤原氏が滅亡した後、東北地方は鎌倉勢力に占められたが、その中では特異な一族で、またそれ故に、その後も流浪変遷していくことになる。
今回の津軽半島の取材の目的の一つは、この安東氏の旧跡を訪ねることで、この十三湖の地は、変遷していく安東氏の、原点に近い部分であるはずだ。その安東氏の夢と挫折が、この唐川城跡からはるかに見渡せるように感じた。

白龍伝説の大沼をまわり、十三湖資料館により、十三湊の基礎的な知識を得て、史跡が多くある十三湖西岸に向った。現在の水戸口にかかる十三湖大橋を渡るとすぐに十三湊の中枢部に入ることになる。
十三湊の史跡が多く残るのは、平行して南北に長く伸びる2つの砂州の内、内側の十三湖西岸の砂州である。この地に十三湊の街区ができ、この安東氏館と考えられる城館もそこにあった。

この城館が築かれたのがいつ頃なのか定かではないが、この地の寺院が、平泉藤原氏の関わりを伝えていることから、平安時代の後期とも考えられる。しかしそれでも地形的にはその防御性はかなり優れており、中世の城と比較しても遜色はない。
南北におよそ3kmほどの長い砂州を、水堀と土塁で南北に分け、十三湊の中枢部分は、三方を湖や天然の水路で囲まれた要害の地になっている。さらに、恐らく十三湊の「詰の城」でもあったのだろう福島城の堅固な造りをあわせ考えると、どのような争乱を前提にした城館なのか興味はつきない。

現在、この「安東氏館跡」は、小学校になっており、その周囲の土塁や堀跡も、気をつけなければわからないような、ありがちな小さな平城のように見える。しかし、その部分だけではなく、「浜の明神」からおよそ3kmに及ぶ砂州の全体を考え、寺跡や街区跡を踏まえてみると、独特の「十三湊城」ともいえる巨大な城館が見えてくるように思えた。

十三湊の史跡を一通り見ながら壇林寺跡を探した。壇林寺は、平泉藤原氏との関係が深い寺で、源義経が蝦夷地に渡る前に立ち寄ったとする伝説がある。
資料館でいただいた資料から大まかな場所は見当がついていたが、なかなか探せなかった。十三湊の街区を南北に走る道の西側にあるはずだが、松林が続いており、それらしい表示もない。探しあぐねて、道端の民家で作業をしているおじいさんにたずねると、幸いなことに、そのお宅のすぐ裏の林がそうだという。親切にも案内していただいた。

史跡の表示板や解説板はなく、このおじいさんの説明がなければ、ただの林で、林の中に随所に残る塚や土塁状の地形に気が付いても、それが史跡である確信は得られなかったろう。
資料によれば、この寺跡は調査されはしたが、史跡として整備されてはいない。しかし畑地などで利用されているわけでもない。ただ松林の中に丈の低い下草で覆われているのだが、それは塚や土塁の地形を波のように浮き立たせており、それはそれで、義経の北行伝説の終着点にふさわしい趣を与えていた。

この義経の北行伝説がそのまま史実とできるものではもちろんないが、この壇林寺が存在した時代と平泉の没落の時代は重なるものがある。安東氏は、鎌倉幕府の北条氏から蝦夷管領として諸権利を与えられた。蝦夷地はもちろん、樺太、蒙古、高麗、沿海州の各国と交易を行い、日本海を中心とした一大文化圏を築いた。しかし安東氏一族間の争いと、大津波と伝えられる(その痕跡は見つけられていない)自然災害により十三湊は荒廃し、さらに安東盛季のとき、南部氏の奸計によって福島城を奪われこの地を追われ蝦夷地に逃れた。

これらの、蝦夷地と安東氏の関りが、義経北行伝説のモチーフの一つになっているのかもしれない。

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