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④ 16万人の粛清で「白頭山伝説」は成立

当時の朝鮮半島の独立派の間には、「金将軍」伝説というものが流布していた。それは、沿海州やシベリア、満ソ国境で反日独立運動を指導していた白馬に跨った将軍というものだった。この金将軍は民族派朝鮮人の間では伝説的な英雄だった。この伝説の金将軍は実在しており、1942年に54歳で没した金擎天=金光瑞がその人だった。金擎天は、1909年に日本の陸軍士官学校に留学し、大日本帝国陸軍騎兵中尉となり、現職時に脱走して独立運動に挺身した。大正年間、主にシベリアで活躍し、後にソ連国籍となったが、スターリンの大粛清で獄死した。

ソ連軍とともに平壌に金日成として現れた金成柱は、1912年生まれで、人々の前に姿を現したのは、33歳の時だった。人々が思い描いていた金将軍よりもはるかに若く、どこの馬の骨とも得体が知れず、人々が「ロスケの手先」と思ったのは無理もなかった。この集会に参加して一部始終を目撃していたライターが次のように書き残している。

「いよいよ金日成将軍の登場となった。次の瞬間みな唖然とした。白髪の老闘士を想像していた人々の目の前に表れたのはそれとは似ても似つかぬ若造だった。」「身の丈は1メートル66、67くらい、中肉の身体に紺色の洋服がやや窮屈で顔は日焼けして浅黒く、髪は中華料理店のウェイターのようにばっさりと刈り上げ、前髪は一寸ほど。恰もライト級の拳闘選手を彷彿させた。にせものだ!広場に集まった群衆の間にまたたくまに不信、失望、不満、怒りの感情が電流のように伝わった」

この集会の警備と世論収集を行った憲兵も書き残している。「私は会場を回りながら民衆の反応を探ったのですが金日成の演説が始まると人々は『偽物だ』、『露助の手先だ』、『ありゃ子供じゃないか。何が金日成将軍なもんか』と口々に言い出したのです。そのまま会場から出て行く人もいました。というのも彼があまりにも若すぎるのと彼の朝鮮語がたどたどしかったからです」

「白頭山伝説」の多くは、ソ連軍に担がれて北朝鮮入りした金成柱ではなく、伝説の英雄は金擎天のものだった。金成柱は金擎天の伝説を借用し脚色したものだった。さらに金成柱は、生まれこそ平壌だったが、父の代に朝鮮を捨て、幼いころから満州で育ち、中国人学校で学び、主に中国共産党として「中国革命」を旗印として略奪殺人などを行っていた、実質的には「中国人」だった。その中国軍をも脱走しソ連に走った国籍不明の「ごろつき」と言ってもいい人物だった。そのため、平壌で人々の前で話した朝鮮語はたどたどしく、人々は同胞として受け入れがたかったようだ。

ソ連に逃げ込み、ソ連の共産主義思想を学んだ金成柱は、スターリンに気に入られた。ソ連は来るべき対日戦に備えて、諜報とゲリラ戦を目的に88旅団を組織しハバロフスクにおき、金成柱を大隊長とした。しかし当時は日ソ間には「不可侵条約」が存在し、対日戦は行われず、ソ連は終戦間近の1945年8月、一方的に不可侵条約を破棄し、満州になだれ込み、そのまま朝鮮半島へ侵攻した。結局ソ連での金成柱は、日本と戦うことなく、ソ連の傀儡としてソ連軍とともに「金日成」として平壌に入った。

しかし金成柱は、賞金を懸けられた普天堡での略奪殺人事件以外の実績はほとんどなく、またソ連軍の朝鮮人部隊としての実績も全くなかった。このためソ連と金成柱は、民衆の心を掴むために、「金将軍伝説」を利用し、赤の他人に成りすますことを企んだ。その「伝説」には4人のモデルがいるとされるが、その中心的な人物が金撃天だった。しかしそれを金日成のものとする伝説は、独立運動に関与したものなら誰しも疑念を持つもので、金日成に与する者は少なかった。それでも、ソ連占領下の暫定統治機関として、1946年2月に北朝鮮臨時人民委員会が成立すると、ソ連軍政当局の後押しを受けて、金日成が委員長に就任した。

金日成が、政権を確実なものにするためには、「金将軍」の真実を知る者の抹殺しかなかった。1950年6月、金日成は朝鮮戦争を始めたが、その戦争中に粛清は始まった。当時、北朝鮮の権力構造内部には4つの政治的派閥が共存していた。国内派、延安派、ソ連派、金日成を中心とする満州派である。この中で、国内派と延安派は、朝鮮半島内で抗日運動を行っていたグループで、「金将軍伝説」を引っ提げて現れた金日成に対して、その正当性に対しては最も疑念を抱いていたと考えられる。この国内派と延安派が真っ先に血祭りにあげられた。金日成は、平壌が陥落した時期から、その責任を問うて、国内派と延安派の粛清を始めた。

朝鮮戦争の被害は大きく、結局は南北痛み分けの休戦で決着したことを理由に、さらに粛清を進めた。朝鮮戦争の最大責任は、渋るソ連と中国を説得し、一方的に38度線を越え、南に侵攻させた金日成にあるはずだ。しかし金日成にとっての戦争責任は、粛清のための口実でしかなかったのだろう。休戦直後の1953年8月、金日成は13人の国内派を「米帝のスパイ」「米帝と結託」とし、金日成政権の転覆を図るクーデターの陰謀を企てたとして全員が極刑に処された。また国内派のメンバーの多くは、職場から追われ、自己批判を強要され、刑務所や強制収容所に送られ結局は殺害された。

その後も粛清は続けられ、この徹底的な粛清によって、1958年までに、金日成の「唯一独裁体制」が確立された。金日成は、1970年頃までに、「朝鮮労働党初代政治委員で生き延びたのは、金日成以外では皆無」と言われるほどの粛清を行った。1972年には憲法が改正され、金日成への権力集中が法的に正当化され、金日成の独裁体制が確立した。金日成はスターリン型の政治手法を用い、還暦を迎えた1972年以降は、「白頭山伝説」に磨きをかけ、金日成の個人崇拝のための神格化はさらに強められた。

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ここで紹介した「白馬の金将軍」は、現代においても「白頭血統」の象徴的な意味を持っているようで、金正恩の息子に、白馬が買い与えられたというのは、北朝鮮では金一族が権力を世襲する意味合いがあるのだろう。今でも北朝鮮だけではなく、韓国や日本の「主体派」は、神格化された金日成を絶対的な存在としているようだ。日本の左翼などは、白頭山伝説をそのまま鵜呑みにしているわけではないだろうが、日教組委員長だった槙枝氏や朝日新聞などは、人権を蹂躙し、国家的にサイバー犯罪や偽札製造、覚醒剤の密輸を行っている犯罪国家を、「ユートピア」として疑ってもいなかったし、今も、組合や日教組系団体などが、北朝鮮ツアーを組んだりしているようだ。