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5、事大の果ての日清戦争と閔妃暗殺

1894年、朝鮮国内の東学党の乱をきっかけに、清国軍と日本軍は朝鮮に出兵したが、反乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け入れずに対峙を続けた。日本は清に対し、朝鮮の独立援助と内政改革を共同でおこなうことを提案し、イギリスも調停案を清へ出したが、清は日本のみの撤兵を要求しこれを拒否した。

日本は朝鮮に対して、朝鮮の自主独立を侵害する清軍の撤退と清朝間の、宗主藩属関係を解消することを申入れた。これに対して、朝鮮政府は「改革は自主的に行う」「乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請」と回答した。しかしこの混乱の中で、朝鮮国内では大院君がクーデターを起こして閔氏政権を追放し、金弘集政権を誕生させた。金弘集政権は、閔氏政権と結んだ清国を掃討すべく、日本に対して牙山の清軍掃討を依頼した。そして豊島沖海戦、成歓の戦いが行われ、8月に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。

近代化された日本軍は、近代軍としての体をなしていない清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、遼東半島などを占領し大勢を決した。この混乱に乗じて大院君は、東学党を扇動し、数十万で大挙して漢城に来るように命じ、平壌の清軍と共に南北から挟み撃ちにして日本軍を駆逐する策を実行するように指示した。しかしその企ても、予想以上に早い日清戦争の決着で、全琫準らが第二次蜂起を起こしたときには、日清戦争は既に大勢が決まっており、11月に農民軍と日本軍が衝突したが、近代的な日本軍に農民軍はあえなく敗退し、全琫準は捕えられた。井上馨日本公使は全琫準の人格に共感しており、朝鮮政府に処刑しないように要請していたが、日本追い落としの企てが発覚することを恐れた朝鮮政府により、井上が帰国している間に処刑された。

翌年4月、下関で日清講和条約が調印され、戦勝した日本は清から遼東半島、台湾、澎湖列島と多額の賠償金などを得ることになった。しかし、ロシア、フランス、ドイツが日本に対して清への遼東半島返還を要求し、その後、日本は三国の要求を受け入れた。

下関条約で、朝鮮は清からの独立を果たしたが、三国干渉によって日本の影響力が後退すると、大院君によって政権を追われていた閔妃とその一族は、下関条約からまだ3ヶ月も経過していない7月に、ロシア軍の力を借りてクーデターを行い、再び政権を奪回した。このロシアを引き込んでの閔妃勢力のクーデターは、大院君や開化派勢力、日本との対立を決定的にした。こうした中での10月、日本軍守備隊、領事館警察官、日本人壮士、朝鮮親衛隊、朝鮮訓練隊、朝鮮警務使が景福宮に突入、騒ぎの中で閔妃は斬り殺され、遺体は焼却された。

事件直後の朝鮮国内での裁判では、興宣大院君を首謀者とする判決が出ているが、決定的な証拠がないため、その後、様々な説が出ている。反日教育の影響か、現在の韓国には、閔妃を殺したのは日本軍であり、さらに閔妃の遺体は日本人により陵辱されたとの話もあるが、閔妃のそれまでの行状を考えれば、大院君のみならず、朝鮮内の多くの者もその動機を持っていた。

崔基鎬は、「閔妃は自身の権力欲のみで庶民の生活を思いやることは無く、義父で恩人でもあった大院君を追放し、清国の袁世凱をそそのかし、ある時は日本に擦り寄り、ある時は清国に接近し、清国を捨てると今度はロシアと結びと、智謀家ではあったが、倫理が無く、『背恩忘徳の生涯』だった」としている。また「門戸開放した朝鮮は西洋の先進文物を取り入れ、富国強兵と産業振興を目指すと同時に、古くなった封建制度を捨て去って新たな秩序を打ち立てなければならなかったが、閔妃とその一族は、この内どれも満足にできず、その結果として、どの勢力からも支持を得られなかった。開化反対を叫び壬午軍乱に参加した群衆は、閔妃を攻撃の的とし、また甲申政変を起こした開化派も東学農民軍もすべて閔妃とその一族の打倒を叫んだ。誰からも支持を得られなかった閔妃は、外国勢力に頼り、自身の権力欲のために清を引き入れ、朝鮮を日清戦争の地としたのは閔妃である」とする者もいる。

6、大韓帝国皇帝高宗の陰謀と日露戦争

清と朝鮮以外の関係各国には、朝鮮情勢の安定化案がいくつかあった。多国間で朝鮮の中立を管理、一国による朝鮮の単独保護、複数国による朝鮮の共同保護である。しかしロシアの南下政策を警戒するイギリスは、日清どちらかによる朝鮮の単独保護ないし共同保護を期待していた。しかしその意に反し、ロシアと朝鮮は次第に接近していった。

日清戦争後、清国は朝鮮の宗主国としての立場を失い、朝鮮は独立国となった。甲午農民戦争を率いた徐載弼と李完用らは、朝鮮における立憲君主制導入を目指し、独立協会を創設し、独立新聞を発行し、開化思想を民衆に啓蒙した。また日本が勝利し、清に朝鮮の独立を認めさせたのを祝い、屈辱の迎恩門の地に、独立門を建設した。

独立協会は、ロシア公使館に逃げていた高宗に対し、王宮に戻ることを進言した。高宗は王宮に戻り、朝鮮初の皇帝に即位し、国号を大韓帝国と改め、李氏朝鮮の自主独立を世界に宣言した。しかし、大韓帝国成立後、高宗は絶対王政を維持しようと、保守勢力と結び、独立協会を弾圧し、1898年にはこれを強制的に解散させた。

その後ロシアは、三国干渉によって、1898年、清国と旅順港、大連湾租借に関する条約を結び、不凍港が手に入ることになると、韓国への関心が失われ、韓国から全てのロシアの軍事、民事アドバイザーが撤退した。しかし親露派の高宗は、ロシアに鍾城や慶源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権などの国家基盤を売り払い、多くの権益がロシアにわたっていた。

また、開化派の金弘集などは殺され、議会政治への道も閉ざされ、民衆は高宗の親露政策に対しても反発の動きを見せた。これらのことから、アメリカ公使のホレイスアレンは「朝鮮人は外国勢力とそのアドバイスに学ばなければならない」として、韓国の統治能力に疑問を持ちはじめ、その状態は「ロシアの影響が完全に撤退されて以降、ますますひどくなった」と述べている。

皇帝になってからも高宗の周辺は安定せず、1898年7月には皇帝譲位計画がおき、9月には高宗、皇太子暗殺未遂事件が起こった。高宗は、光武改革という近代化政策を推し進めるが、財源の一元化の失敗、脆弱な財政基盤を強化するための増税が民衆反乱を招き、改革は頓挫してしまう。

一方、ロシアと日本は、満州と朝鮮を挟み対立は深刻化していた。地政学的に、大韓帝国がロシアによって飲み込まれるような事態になれば、日本の安全保障が脅かされることから、対朝鮮政策を強化していった。1904年2月、大韓帝国における軍事行動を可能にするために日韓議定書を締結した。そして清国での義和団事件をきっかけにして、ついに日露戦争が始まった。

開戦後の8月には、大韓帝国とロシアが結ぶことを牽制し、第一次日韓協約を締結し、大韓帝国の財政、外交に顧問を置き条約締結に日本政府との協議をすることとした。この時期の大韓帝国は、これまでの事大の相手が、清からロシアに移っただけで、李氏朝鮮による旧体制が維持されている状況では、独自改革が難しいと判断した進歩会は、日韓合邦を目指そうと鉄道敷設工事などに5万人ともいわれる大量の人員を派遣するなど、日露戦争において日本への協力を惜しまなかった。

戦局は日本優位に進み、日本は1905年4月に韓国保護権確立を閣議決定した。また7月には、アメリカとの間で、アメリカのフィリピンでの権益を認める代わりに朝鮮での権益を認めさせ、8月には第2回日英同盟を締結し、ロシアの南下に対抗する拠点として朝鮮支配の確約を得た。これらの動きの中で高宗は、大韓帝国をロシアの保護下に置くための密使を派遣したが、日本は高宗の密使を発見し、高宗の条約違反という弱みを握ることとなった。

また、1907年6月には、高宗は、第2回万国平和会議が行われるハーグに、秘密裏に特使を派遣したが、既に日本の権益を認めていた列強からは相手にされなかった。この事件により、日本の意を受けた李完用などの勢力は、高宗の皇帝退位へと動き、7月純宗へ譲位し退位した。

日露戦争は、日本が勝利し、列強の支持を取り付けた日本は、11月、第二次日韓協約を締結し、韓国の外交権を剥奪し、日本の保護国とした。承政院日記には、高宗が保護条約反対派の大臣をなだめる記述が残っている。

7、腐敗と強欲傲慢の果ての日韓併合

大韓帝国時代、高宗は光武改革を行ったが、それについてイギリスの旅行作家イザベラ・バードは、『朝鮮紀行』で以下のように述べている。

「朝鮮人官僚界の態度は、日本の成功に関心を持つ少数の人々をのぞき、新しい体制にとってまったく不都合なもので、改革のひとつひとつが憤りの対象となった。官吏階級は改革で「搾取」や不正利得がもはやできなくなると見ており、ごまんといる役所の居候や取り巻きとともに、 全員が私利私欲という最強の動機で結ばれ、改革には積極的にせよ消極的にせよ反対していた。政治腐敗はソウルが本拠地であるものの、どの地方でもスケールこそそれより小さいとはいえ、首都と同質の不正がはびこっており、勤勉実直な階層をしいたげて私腹を肥やす悪徳官吏が跋扈していた。このように堕落しきった朝鮮の官僚制度の浄化に日本は着手したのであるが、これは困難きわまりなかった。名誉と高潔の伝統は、あったとしてももう何世紀も前に忘れられている。公正な官吏の規範は存在しない。日本が改革に着手したとき、朝鮮には階層が二つしかなかった。 盗む側と盗まれる側である。そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。「搾取」 と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」

ハーグ密使事件以降、日本では盛んに韓国併合が取りざたされるようになった。反対論には、福沢諭吉の「脱亜論」を受けて、「朝鮮人を皇民とせしは皇国民の質の劣化となる」というものもあったとされる。また、併合の際に、朝鮮の近代化のためには莫大な資金の負担についての懸念もあった。反対に、軍部を中心に、ロシア勢力が弱体化した満州への膨張政策のため、日韓併合賛成派もあり、国論は併合賛成・反対に二分された。

1909年7月の閣議で、日韓併合方針は明確となった。伊藤博文は併合に反対だったとされるが、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」と了承し朝鮮統監となった。併合に当たっては、統監として朝鮮の権限剥奪や軍隊解散、皇帝の退位などに関与しなければならず、抗日独立派からは敵視され、同年10月、安重根により暗殺された。伊藤博文は死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたという。この暗殺事件により日本の国論は沸騰し、また動揺した朝鮮親日派の嘆願などの影響で、併合は早められ、結果として、安重根は「先の読めない暗殺者」ということになった。

同年12月には、当時、自称会員100万人を誇る韓国最大政党である「一進会」は、「韓日合邦を要求する声明書」を上奏した。これは、大日本帝国と大韓帝国が対等な立場で新たに一つの大帝国を作るというものだった。また、この声明の中で「日本は日清戦争や日露戦争で、莫大な費用と多数の人命を費やしながら、韓国を独立させ、ロシアの口に飲み込まれる肉になるのを助け、東洋全体の平和を維持した。外交権が奪われ、保護条約に至ったのは、我々が招いたのである。第三次日韓協約、ハーグ密使事件も我々が招いた。我が国の皇帝陛下と日本天皇陛下に懇願し、朝鮮人も日本人と同じ一等国民の待遇を享受し、政府と社会を発展させよう」との声明をだした。もちろんこれは、伊藤博文暗殺に対する日本人の反感に敏感に反応したという側面もあるだろう。

1910年8月、注意人物の事前検束が行われた上、一個連隊相当の兵力が警備する中、漢城で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、大日本帝国は大韓帝国を併合した。新たに朝鮮全土を統治する朝鮮総督府が設置され、韓国の皇族は大日本帝国の皇族に準じる王公族に封じられ、また、韓国併合に貢献した朝鮮人は朝鮮貴族とされた。

日韓併合は、当時のアジアの列強諸国の競り合いの中で生まれたぎりぎりの結論であり、国際社会はこれを受け入れた。そしてこれは、一進会が言うように、国民を省みることなく、国際社会を争乱に巻き込んだ、大韓帝国自身の強欲と腐敗と権力欲の結果だった。

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