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金田一温泉駅近辺には、非常に躍動的な狐伝説が伝えられている。

金田一温泉郷は、岩手県二戸市の馬淵川の、馬仙峡より約8kmほど上流にある温泉で、9軒の温泉宿がある。温泉街最奥に、「座敷わらし」で知られている旅館があり、火災で全焼したが現在は復活している。

以前は、田んぼから湯が沸いたことから、湯田温泉と呼ばれており、寛永3年(1626)頃の開湯とされる。江戸時代には盛岡南部藩の指定湯治場となり、「侍の湯」と呼ばれ、その時期から既に温泉街が形成されていたものと考えられる。

明治24年(1891)東北本線が開通し、この駅は明治42年(1909)「金田一駅」として設置され、昭和62年(1987)、「金田一温泉駅」と改称された。当時は単線で、汽車は時速30から40km位で、勾配が急なところでは10km程度で走っていた。

或る日の夕暮、金田一駅を出発した下りの汽車が、間もなく岩舘山の付近にさしかかった時、機関士が線路沿いの草原をうろついていた一匹の狐を見つけ、いたずらにこぶし大の石炭を投げつけた。その後もこの機関士は、狐を見つけると度々狐に石炭を投げて悪戯していた。この狐は、岩舘山の岩穴に住んでいた名の知れた狐の「岩舘いわこ」だった。いわこは、このことを仲間の狐の「トトメキとらこ」と「マガチャカまんこ」と相談し、この機関士に仕返しをすることにした。

ある初秋の月明かりの晩、駅を発車した下りの汽車が、岩舘山付近にさしかかった時、驚くことに向こうから逆方向に煌々と明りを照らした汽車が向ってくる。機関士はあわててブレーキを踏み、「間に合わない」っと叫んだが何も起きなかった。降りてあたりを見廻したが、あたりは静かに月の光が輝いているだけだった。

それから数日後、駅を発車した上りの汽車が、「上田面」の踏切を過ぎた頃、下りに向かって来る、別の汽車のライトを見つけた。徐々にブレーキをかけながら進んだが、もう一つの汽車は進行してくる気配はなく、三十間程まで近づいたが、その汽車はライトを照らしたまま停止していた。機関士は、その汽車へ行こうと降車して歩き出そうとしたら、あったはずの汽車は消えていた。

この不思議な話は、駅員達から村人たちにも広がり、村人たちは狐達の仕業だと噂し、また狐たちの役者振りが評判になって行った。また、国鉄盛岡では、機関士達を集めて、金田一付近を走行中にこのようなことがあっても、狐の仕業で決して汽車の衝突などあり得ない事なので、そのまま進めという指示が出された。

その後、暫くは何も起こらず、機関士たちもほっとして、これで終わりかと思っていた矢先に、再び狐に石炭を投げつけた機関士の乗車した機関車が狙われた。雲一つない月夜に、この駅を発車した下りの汽車が、岩舘山の下にさしかかった時、又しても上りの汽車がその音も物凄く、照明燈の輝きも増し、こちらに向かって進んできた。機関士は圧倒されたが、これは狐達が化けた汽車だろうと、ブレーキもかけずに進み衝突を決行し正面衝突した。

しかしやはり何も起きずに、機関士が降りて確認すると、汽車にひかれた狐の後足が線路脇に落ちていた。

この「岩舘いわこ」には「きんこ」という娘がいたが、きんこは母親狐が足をひかれた悔しさから、夜になるとこの機関士の家に通い、寝静まった頃を見計らって茅葺屋根をガザガザと茅を引き抜くような音をさせて機関士を悩ませた。機関士はたまりかねて巫女に相談し、自分の乗車の時は岩舘山の下で一時停止し、その度に魚を供えて詫びを入れ態度を改めたと云う。

それ以来このような事件はなくなった。その後岩舘山付近を通る村人達が、三本足で歩いていたいわこの姿を見かけたと云う。

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