この日は、幸いなことに快晴にめぐまれ、風も穏やかだった。飛島までは、酒田市の定期船で、200トンクラスの新造の双胴船だった。かつては定期船とはいえ、80トンクラスの漁船程度のもので、速度も遅く、しょっちゅう欠航していたらしい。周囲は約10km程度で、人口は凡そ200人、鳥海国定公園に属する岩の島である。

昨日の強風の影響で、うねりは高く、外洋に出ると船は大きく上下にゆれる。「天気晴朗なれど波高し」である。出港してすぐに、鳥海山を間近に臨む。澄んだ空に、稜線が海から天空に駆け上るように山頂へ走る。鳥海山は飛島の謎解きのカギの一つだ。

島は、海蝕段丘で、島の頂部は平たんで、周辺部は断崖に囲まれている。島の南東側の湾曲部に港が造られ、家々はこの地に集中している。江戸期には北前船の風待ち港として栄えたようで、人口のわりに、旅館、民宿が異様に多い。

島に上がって、案内マップを片手に、おにぎり2個とペットボトル1本をもって歩き始める。歩き始めてすぐに、おがみ神社の里宮がある。このおがみ神社は、今のところ謎であるが、この島の不思議の中心に位置するものと推量している。本宮は、島の反対側の御積島にあるという。まずは歩みを進める。

人骨が発見されたテキ穴遺跡を過ぎ、小物忌神社にいたる。これは鳥海山の大物忌神に対するもので、恐らくは平安時代中期の鳥海山の活動期以降にこの島に入った鳥海山信仰によるものだろう。この小物忌神社から山道を進むと、頂部の平たん部を通る舗装道路に出る。その先の藪の中に、この島のもう一つの謎の、平家の落人伝説を伝える「源氏盛、平家盛」がある。何のことはないただの土壇だが、この地に残る海賊伝説につながっていくのではと考えている。

島の頂部の平たん地からは鳥海山を美しく臨むことができる。その平たん地の殆どは、畑として丁寧に耕されている。勤勉な島民の生活がそこにみられる。しかし決定的な問題として、米がとれないのだ。江戸期には年貢米の代わりにスルメ10万匹が献納されていたと云う。この地に平家落人のような武力勢力が入ったことで、この島にも小さいながら封建制度が敷かれただろう。その中で島民の生活を維持させるために、中世の交易船を襲い、対岸の出羽での略奪などの海賊行為が行われたことは容易に想像できる。

島の頂部を南西に進むと、御積島が見え始める。島の西側の海岸線は非常に美しいが、冬にはシベリアからの寒風をまともに受けるのだろう、人家は全く見られない。御積島は、この島の西方に浮かぶ島で、島民にとってこの島は死者の霊が集まる西方浄土なのかもしれない。対岸には「明神の社」があり、おがみ神社の御神体は御積島の龍伝説を持つ洞窟であり、明神の社は、遥拝所である。明神の社付近の玉石の海岸一帯は、賽の河原と呼ばれ、石の持ち出しは禁止されている。海の民の飛島島民にとって、この地こそ、原初の信仰の地なのだろう。

賽の河原から、岩間に咲くトビシマカンゾウを見ながら、奇岩の間をアップダウンする遊歩道を、帰りの時間を気にしながら、最後の予定地の館岩に向かう。館岩は、海賊の城塞だったと伝えられる、港の西側にそびえる岩山だ。中世には、この島にも武力集団による統治が行われ、その集団が何らかの海賊行為を行っていたのは間違いないだろう。当然、それを討伐する軍勢が島に寄せたこともあるだろう。それらに対する防衛拠点として、立地的には合理的な位置にある。館岩上部は平たんであり、中世的な城塞としての技巧は見られないが、石積みの跡や、自然の虎口のようなものもみられる。この館岩は、もう少し調べたかったのだが、帰りの船の時間が迫っており、港で待つ船に向かった。

この島の産業の中心は、今もイカ漁と観光のようだ。よく考えれば、この地はイカ漁の好漁場である大和堆の周辺部に当たる。最近、その大和堆周辺には北朝鮮の不審船が出没し、日本海沿岸には不審船の漂着が相次いだ。またこの島の美しい西側の海岸には、ハングル文字のある漂着物も多くあった。この島を去るにあたって、美しいこの不思議の島は、安全保障上も心にとめておかなければならないだろうと考えた。

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