天正12年(1584)10月、輝宗は、嫡男の政宗に家督を相続し隠居した。しかしこの早すぎる政宗の家督相続に対して、仙道地域の大小名らが見る目は決して温かいものではなく、かつての仙道地域の盟主である伊達家の若き後継者を値踏みしていた。

そのような時期に、塩松一帯を支配していた大内定綱が、政宗が伊達氏の家督を継ぐと米沢に祝賀に出向き、引き続き伊達氏へ臣従を申し出た。しかしその後、畠山氏、佐竹氏、葦名氏らと結び、伊達氏と対峙する道を選び、政宗の使者に対し、「伊達に服するつもりなど毛頭無い」と手切れを言い渡した。

政宗にとってこれは許しがたいことであり、この対応を誤れば、様子見をしている仙道地域の大小名たちが離反してしまう恐れがあり、また伊達家中にくすぶる弟小次郎擁立の動きが表面化する懸念もあった。

政宗は果敢に動いた。天正13年(1585)8月、米沢から、小浜の大内定綱攻撃のため軍を発した。これに対し定綱は、二本松の畠山氏、会津黒川の葦名氏の助勢を受けて小浜城に籠った。政宗は、川俣方面から塩松に攻め入り、大内氏の支城である小手森城を囲んだ。「抗すれば女子供、牛馬の果てまで撫で斬りにする」旨の矢文が何度か打たれたが、反応はなく、小手森城攻めは始まった。

 

この伊達政宗が行った撫で斬りは、政宗を侮っていた勢力に、衝撃をもって喧伝されていった。この苛烈な落城劇を知った近くの二城は、その夜のうちに城を焼き払い引き退いていった。また大内定綱も、この政宗の怒りに恐怖し、頼みの二本松勢や会津勢から十分な救援も得られぬまま、小浜城に火を放ち二本松へ落ち延びた。

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