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福島県磐梯町の慧日寺には、平将門の三女の滝姫(如蔵尼)の墓と伝えられる墓碑がある。

平将門は桓武天皇の皇胤であり、平氏の姓を授けられた高望王の三男の鎮守府将軍平良将の子である。将門は現在の茨木県坂東市を所領とし、馬牧の経営と製鉄による農具の開発などに取り組み、荒地の開拓を容易にした。

しかしそうした進歩性が一族との争いを生み、その争いが国家権力との争いに発展し、下総国・常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸国を巻き込む争いへと進み、その際に国府を襲撃して印鑰を奪い、京都の朝廷 朱雀天皇に対抗して「新皇」を自称し、東国の独立を標榜したことによって、遂には朝敵となってしまった。

将門は、島広山に石井営所を築き、この地は、名実ともに将門の政治、経済、軍事の拠点として賑わった。しかし親皇即位後わずか2カ月たらずの天慶3年(940)2月に、藤原秀郷と、従兄弟である平貞盛の連合軍と、北山の合戦に敗れ、戦死した。

将門の首は、藤原秀郷により都の七条河原でさらされたが、数ヶ月経った後も目を開いたり閉じたりを繰り返し、時折大声で叫び大地をふるわせ、その後、怨念により故郷の東国に向かって飛んでいき、現在の千代田区大手町の地に落ちたという。その地に首塚が祀られたが、13世紀になると首塚は荒廃し、平将門の亡霊は怒り、江戸の民を祟ったと言い、祟りを恐れた江戸の民は、改めて手厚く将門を供養したという。

滝姫は「滝夜叉姫」として神楽の演目とされ、おどろおどろしい妖術使いとして伝えられているものも多いが、この地では次のように伝えられている。

滝姫は心優しく、詩歌管弦に通じた美しい姫であった。多くの男達から求婚されたが、滝姫はそれには全く興味を示さなかった。父の将門は情に篤い武将で、慧日寺に深く帰依していたが、朝敵となり、ついには討たれてしまった。滝姫はこの地の慧日寺に難を逃れ、寺の傍らに庵を結び、父将門や一族の者達の菩提を弔いながらひっそりと暮らしていた。しかしその内病を得てあっけなく亡くなってしまった。

死後、滝姫は冥途の閻魔庁で、多くの罪人たちが生前の悪行のために罰を受けて苦しむのを見た。それらの人々の中に、錫杖を持った僧を見つけ、信仰の篤い滝姫は経文を唱えた。その僧は、地蔵菩薩の化身で、滝姫は生前に何の罪もないことを知っており、閻魔王に彼女を現世に戻すよう命じた。

地蔵菩薩は彼女に、経文と極楽往生するための要句を教え、滝姫は現世に戻った。生き返った滝姫は、出家して如蔵尼と名乗り、ひたすらに地蔵菩薩を信仰した。如蔵尼はその後80歳余りまで生き、大往生を遂げたと云う。

また宮城県仙台市宮城野区の「比丘尼坂」付近には、平将門の妹が逃れてきたという話が伝えられている。

将門が、下総の北山の合戦に敗れ、戦死した際に、その妹が相馬御所に逃れた。しかし将門が処刑された後に、さらに海路を逃れ、当時は海であった宮城野区小鶴付近に漂着し、多賀城に続く道の坂を登り、この地で尼となり庵を結び一族の菩提を弔ったという。

その後茶屋を開いて道行く人に甘酒などを売り暮らしていたが、美人であったため評判になり、人呼んでこの茶屋を比丘尼茶屋、この地を比丘尼坂と呼ぶようになった。 年を経て、この茶屋は南ばん家という屋号で街道を往還する旅人に甘酒を売り、今市の足軽が内職で駄菓子を店頭に並べ、玩具のはねっこ兎なども売り繁盛し、街道の名物となったという。