現在、海上自衛隊大湊地方隊のある地には、かつて海軍大湊警備府があった。この地は、海軍条例の中の第五海軍区となり、その範囲は「北海道陸奥ノ海岸海面及津軽海峡」と決められていた。日露戦争においてその重要度は高まり、明治38年(1905)大湊要港部となり、日米開戦が迫る中、昭和16年(1941)11月、それまでの大湊要港部は大湊警備府に昇格した。

太平洋戦争中は、千島方面の防備強化のため、第5艦隊、第1水雷戦隊などが配置された。しかし戦局は悪化し、昭和20年(1945)8月の大湊空襲により大きな被害を受け終戦を迎えた。

この大湊警備府が関わった特筆すべき作戦にキスカ島撤退作戦がある。

昭和17年(1942)、日本はアッツ島を占領したが、昭和18年(1943)5月、アメリカ軍はアッツ島を攻撃し、島の日本軍守備隊は必死の抵抗を続けたが、最後はバンザイ突撃により玉砕した。これにより、キスカ島にいる守備隊、陸海軍あわせて6千名余は完全に孤立してしまった。

大本営ではアリューシャン列島からの撤退が決定され、キスカ島守備隊の撤退作戦が練られた。本来は、駆逐艦などの高速、軽艦艇により夜陰に乗じて撤退を行うのが最も効率のよい方法であったが、この当時はすでにソロモン海戦などで多くの駆逐艦を失っており、そのため潜水艦15隻による守備隊の撤退作戦が実行された。

昭和18年(1943)6月上旬に2回の輸送作戦が行われ、傷病兵等約800名が後送され、また弾薬125トン、糧食100トンの守備隊への輸送に成功した。しかしレーダー装備艦艇や航空機も投入したアメリカ軍の哨戒網は厳重であり、伊24など3隻の潜水艦を失った。成果の割には損害が大きく、また効率も悪かったため水上艦艇による撤退作戦に切り替えられることになった。

しかし、制海権、制空権をアメリカに握られている中での正面突破は不可能であり、この地方特有の濃霧に紛れて高速でキスカ湾に突入、素早く守備隊を収容した後に離脱を図るという計画が立てられた。キスカ島のすぐ東側のアムチトカ島には、アメリカ軍の航空基地があり、B-25などの爆撃機が配備されていたために、上空援護のない撤退部隊が空襲を受ければ全滅もあり得た。しかし当時は、濃霧の中で空襲をかけられる航空機はなく、このキスカ島の天候状況は撤収部隊の死命を制するといっていいものだった。

また日本艦隊には、当時、巡洋艦や駆逐艦クラスで電探を装備した艦はほとんどなかった。第一期作戦での失敗も、潜水艦が濃霧の中を浮上航行していたところを敵艦にレーダーで発見され、レーダー射撃を受けて撃沈されたり損傷したりしたためだった。このため、第二期作戦では、電探と逆探を搭載した、就役したばかりの新鋭高速駆逐艦島風が配備された。

また、仮に肉眼でアメリカ軍に発見されたとしても、アメリカ艦と誤認するように、阿武隈、木曾の3本煙突の1本を白く塗りつぶして二本煙突に見えるようにしたり、駆逐艦に偽装煙突をつけたりと各艦とも偽装工作を万全にした。

しかしこれは、濃霧が発生しなければ上空援護のない撤退部隊は、アメリカ軍の爆撃により全滅する恐れもあり、また8月になれば、この方面の霧は晴れ始め、アメリカ軍の上陸作戦が確実に行われると予想されており、時期は限られていた。更にこの地域に備蓄していた重油は二度の出撃分しかなく、そのような中で作戦は発動された。

7月7日、水上部隊が出撃したが、十分な霧の発生がなく一旦帰投し、濃霧が発生するのを待った。7月22日、「7月25日以降、キスカ島周辺に確実に霧が発生する」との予報を得、撤収部隊はその日の夜再出撃した。このときは、第5艦隊司令長官以下第5艦隊司令部が「多摩」に座乗し出撃するという背水の陣の構えだった。

7月29日が濃霧の可能性大との予報があり、気象観測の潜水艦各艦及びキスカ島守備隊からの通報も同様のものだった。これを受け、木村司令官は突入を決意、第5艦隊司令部へ「本日ノ天佑我ニアリト信ズ」と打電しキスカ撤退作戦は始まった。

敵艦隊との遭遇を避けるために南西方向から直接突入せずにキスカ湾を西側から迂回して島影に沿いつつ、座礁や衝突の危険を冒してキスカ湾に向かった。キスカ島の守備隊は、これまで幾度も撤収に備えて、島の配置位置から全員キスカ湾の海岸に集結しては、回収部隊が到達できず解散することが繰り返されていた。この日もすでに海岸には、守備部隊5千200名が、声も立てず海岸に集結しているはずだった。

キスカ湾間近になり、極度の緊張と濃霧の中、旗艦阿武隈が敵艦隊発見を報じ直ちに魚雷4本を発射、同じく島風も発射し全弾命中したが、目標は敵艦ではなく軍艦に似た形の島だった。

7月29日12時、艦隊はキスカ湾に突入、13時40分に投錨した。ただちに待ち構えていたキスカ島守備隊員約5千200名を大発のピストン輸送により僅か55分という短時間で迅速に収容した。この収容中に爆撃を受けたらひとたまりもない。そのため、使用済の大発は回収せずに自沈させ、陸軍兵士には持っている三八式歩兵銃をも投棄させて身軽にし、収容時間の短縮を最優先にした。

守備隊全員を収容後、ただちに艦隊はキスカ湾を全速で離脱した。その日の夕刻、濃霧の中の撤収部隊は、浮上航行中のアメリカ海軍の潜水艦と近距離で遭遇した。しかし各艦とも、偽装工作をおこなっていたのが功を奏し、米潜水艦は撤収部隊をアメリカ艦隊と誤認したらしく、素通りして行った

撤収艦隊は深い霧に包まれたまま、アメリカの空襲圏外まで無事に離脱することができた。艦隊は7月31日から8月1日にかけて、幌筵に全艦無事帰投。気象通報の潜水艦も全艦無事帰投し、ここに戦史上極めて珍しい無傷での撤退作戦は完了した。

その後の8月15日、アメリカ軍は艦艇100隻余りを動員、艦砲射撃を行った後で、濃霧の中兵力約3万4千名が一斉に上陸を開始し、極度に緊張した状態の中で各所で同士討ちが発生、死者約100名を出した。また、日本軍軍医が悪戯で『ペスト患者収容所』と書いた立て看板を兵舎前に残してきており、これを見たアメリカ軍は一時パニック状態に陥り、緊急に本国に大量のペスト用ワクチンを発注したと云う。

現在、大湊には、海上自衛隊大湊地方隊が置かれ、護衛艦「まきなみ」「すずなみ」など、合計8隻の艦艇が在籍している。国際海峡である津軽海峡、宗谷海峡を含む日本海側、太平洋側ともに、青森県以北の周辺海域の警備にあたっている。

 

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