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夏の盛り、数ヶ所遠野市内をまわった後にこのデンデラ野を訪れた。遠野市内の集落から少し離れた高原状の地にその「デンデラ野」はあった。

デンデラ野は、漢字で蓮台野と表記されていたもので、「れんだいの」が「デンデラノ」と転訛したのだとされる。蓮台野とは墓地や野辺送りの地のことで、昔は、故人と親しい人達が棺をかつぎ、悲しみの行列をつくって火葬場や埋葬地まで送った。

しかし、この地のデンデラ野は、60歳以上の老人を「棄てた」地である。現地には、粗末な小屋が一棟復元されていた。この地で、何人かの老人達が肩を寄せ合い、その余生を送ったと云う。

この地は冷涼な地で、稲作の北限の地であり、米作はその年の天候に大きく影響され、不作が数年続くことも珍しくはなかった。特に江戸時代後期には、食べられなくなった百姓が一揆を起こすことも多かった。そのような状況下で、「姥捨て」は、この地の人々の、生きていくための知恵だったのだ。

働けるうちは問題は無かったろうが、病を得て動けなくなり、介護が必要になったときには、当時の山間の貧しい暮らしの中では、その世話をしながら生きていく余力は無かっただろう。この地の暗黙の了解の中で、このデンデラ野は出来た。

老人たちは、元気なうちは里に下り、実家の農作業などを手伝い、わずかな食料を得てこの地に戻り暮らした。動けなくなれば、恐らくは他の老人たちのそれなりの「介護」を受けながら、時折の実家からの差し入れなどを受け、じっと命の果てるのを待ったのだろう。

好んで、年老いた母親や父親を「棄てる」者はいなかったろうと私は信じたい。この地の人々は、次の世代に命をつなぐため、厳しい自然の中で、「棄てる」ことと「棄てられる」ことを、互いに納得しなければならず、その苦悩の中で、最善の方策として、このデンデラ野を考え出したのだろう。

かつて日本には「端山信仰」があり、死んだ者の魂は一旦里に近い端山(葉山)に集まり、そこから本山に向かい天に上ったと云う。この地はその生と死の境にある「端山」なのだろう。老人たちは仏の手にその身を委ね、幼馴染でもあるだろう他の老人達に看取られながら、ひっそりと命を終えたのだろう。

彼らは、「棄てる・棄てられる」苦悩を互いに和らげるために、60歳を越えればデンデラ野に入ることを村の「掟」とした。そしてその不条理に対しては、仏の慈悲に頼るしかなかったのだと思う。老人たちは生きたまま仏となり、デンデラ野に野辺送りされた。それは現代の感覚での「悲劇」ではなく、仏の道への悲痛な「祝い事」だったように思える。

この時代と比較して果たして現代はどうだろう。各地に介護施設などの老人のための施設はあるが、このデンデラ野と比較して、本質的にはあまり変わりがないようにも思われる。また、介護施設を利用できる老人たちはまだましで、各地で老人の孤独死も伝えられる。このデンデラ野の時代と比べて、現代の日本がいかほどか進んでいるのか、疑問に思う。

現代の、社会に置いてきぼりにされた老人達の孤独死や、家族に囲まれながらも拠り所を失った孤独死よりは、まだましだったのではと、夏の明るい日差しの中で、遠くに見える本山に手を合わせ考えた。

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