イザベラは、東京湾から幻のような富士を眺め、横浜港に着き、浮浪者が一人もいないことに驚き、港で勤勉に働く日本人の姿を見る。街路では、それぞれに飾り立てた人力車が、疾駆する様子には驚き、また荷車を懸命に引く男たちの姿を見て、日本人がそれぞれの役割を持っている様子を見た。

 

第三信
江戸、英国公使館にて、5月24日

【鉄道】
私は英国公使館の慣習に従って手紙には江戸と書いてきたが、一般には東京(東の都)という新しい名が用いられている。ミカドが以前に住んでいた京都は西京(西の都)という名をつけられたが、今では都として認められる権利は少しもない。江戸と言う名は、旧体制の幕府に属するものであり、東京と言う名は新政権の維新政府に属するもので、その歴史はまだ10年間である。鉄道で「江戸」へ旅をするといえば不条理に思えるだろうが、目的地が東京であれば、いっこうに差支えはあるまい。

東京と横浜の間は、汽車で一時間の旅行である。すばらしい鉄道で、砂利を良く敷き詰めた複線となっている。長さは18マイル。鉄橋あり、小ぎれいな停車場があり、終着駅はしっかりできており、広々としている。この鉄道は、英国人の技師たちの建設になるもので、1872年(明治5年)の開通式には、ミカドが臨幸された。
(中略)

日本人は、西洋の服装をすると、とても小さく見える。どの服も似合わない。日本人のみじめな体格、へこんだ胸部、ガニマタ足という国民的欠陥をいっそうひどくさせるだけである。顔に色つやがなく、髭をはやしてないので、男の年齢を判断することはほとんど不可能である。鉄道員はみな17歳か18歳の若者と想像したが、実際は25歳から40歳の人たちであった。

【東京湾と関東平野】
うららかな日で、英国の6月に似ていたが、少し暑かった。日本の春の誇りであるサクラやその同類は花を終わったが、すべてが新緑で、豊かに成長する美しさにあふれていた。横浜のすぐ近辺の景色は美しい。切り立った森の岡があり、眺めの良い小さな谷間がある。しかし神奈川を過ぎると、広大な江戸平野(関東平野)に入る。これは北から南まで90マイルあるといわれる。平野が北と西に果てるところ、非常に高い山々が青い靄の中に、青くかすんで夢のように浮かんでいた。東の崖の岸辺には、何マイルにもわたって江戸湾のきれいな青い海がさざ波を立て、数限りない漁船の白帆を明るく反映していた。

この肥沃な平野には、百万の人口をもつ都があるばかりでなく、多くの賑やかな都会があり、数百の豊かな農村がある。汽車から見渡す限り、寸尺の土地も鍬を用いて熱心に耕されている。その大部分は米作の為灌漑されており、水流も豊富である。いたるところに村が散在し、灰色の草屋根におおわれた灰色の木造の家屋や、ふしぎな曲線を描いた屋根のある灰色の寺が姿を見せている。そのすべてが家庭的で、生活に適しており、美しい。勤勉な国民の国土である。雑草は一本も見えない。どこでも人間が多いという点を除けば、一見したところ何も変わったところはなく、それほど目立つ特色もない。
(中略)

【女性と子供】
汽車は終点の新橋駅に入り、とまると、2百人の日本人乗客を吐き出した。合わせて4百の下駄の音は、私にとって初めて聞く音であった。この人たちは下駄をはいているから、3インチ背丈が伸びるのだが、それでも5フィート7インチに達する男性や、5フィート2インチに達する女性は少なかった。しかし、和服を着ているので、ずっと大きく見える。和服はまた、彼らの容姿の欠陥を隠している。やせて、黄色くて、それでいて楽しそうな顔つきである。色彩に乏しく、くっきり目立たせる点もない。女性はとても小柄で、よちよち歩いている。子どもたちは、かしこまった顔をしていて、堂々たる大人をそのまま小型にした姿である。私は彼らすべてを以前に見たことがあるような気がする。お盆や扇子や茶瓶に描かれている彼らの姿にそっくりだからである。
(中略)

【江戸城】
公使館は麹町にあって、そこは歴史的な「江戸城」の内濠の上の高台になっている。しかし、そこへ行く途中で私が見たものは、詳細にお話ができない。ただ何マイルも暗くてしずまり返った兵営のような建物が続き、それには非常に装飾を施した門構えがあり、長く並んでいる突き出し窓には葦で編んだ簾がかけてあった。これは江戸の封建時代の屋敷である。それから何マイルも濠があり、高い草の土手や、50フィートも高さのある大きな石垣、キオスクのような塔が、あちらこちらの隅に立って見えた。珍しい屋根付きの門、多くの橋、何エーカーも続く蓮があった。内濠をまわって急な坂を登ると、右手に深い緑の水をたたえた濠があり、その大きな草の土手の上に、うす暗い石垣が聳え立ち、松の木の枝がおおいかぶさっている。これがかつて、将軍の宮殿を囲んでいたのである。
(中略)

【英国公使館】
英国公使館はいい場所にあって、外務省やいくつかの政府の省、大臣たちの公舎の近くであるこれら公共建物は、英国の郊外邸宅の様式をとって煉瓦造りが多い。公使館の入り口には、煉瓦のアーチ形正門があり、英国王室の紋章をつけている。構内には公使官邸、大法官庁、公使館の二名の書記官のための、二つの官舎、護衛隊の宿舎がある。

それは英国人の家屋であり英国人の家庭である。しかし、一人の立派な乳母をのぞいては、英国人の召し使いはいない。召し使い頭と従僕は、背の高い中国人で、長い弁髪を下げ、繻子の黒い帽子をかぶり、青色の長い衣服を着けている。料理人は中国人で、その他の召し使いたちはすべて日本人である。その中には、一人の女中がいる。優しくて親切な女の子で、丈は4フィート5インチばかり、下男頭の妻である。召し使いはだれもが、全く癪に障る波止場英語しかしゃべれないが、利口で忠実につかえてくれるので、そのめちゃくちゃな英語を補って余りあるものだ。
(中略)

【アーネストサトウ】
公使館の日本書記官はアーネストサトウ氏である。この人の学識に関する評判は、特に歴史部門において、日本における最高権威であると日本人自身も言っておるほどである。これは英国人にとって輝かしい栄誉である。15年間にわたる彼のあくなき勤勉努力のたまものである。しかし日本に来ている英国の外交官や文官たちの学識は、サトウ氏に限られたわけではない。領事勤務の数人の紳士方は、通訳生としての種々の段階を経て、今では、口語日本語を自由に操る能力に優れているばかりでなく、日本の歴史、神話、考古学、文学など、多くの分野で傑出している。実に日本の若い世代の人々は、自分たちの古代文学の知識のみならず、今世紀前半の風俗習慣に関する知識を絶やさぬようにしてくれたことで、彼ら英国文官の人たちの努力や、その他の少数の英国人やドイツ人の努力に対して、恩恵を感ずるだろう。

 

第四信
江戸、英国公使館、6月7日

【中国人】
横浜に一日でも滞在すれば、小柄で薄着のいつも貧相の日本人とはまったくちがった種類の、東洋人を見ずにはいられない。日本に居住する2千5百人の中国人の中で1千1百人以上が横浜にいる。もし突然彼らを追い払うようなことがあれば、横浜の商業活動は直ちに停止するであろう。どこでも同じだが、ここでも中国人は、必要欠くべからざるものとなっている。
(中略)

彼はまったく裕福そうに見える。人に不愉快な感じを与える顔つきではないが「おれは中国人だぞ」と人を見下している感じを与える。商館で何かを尋ねたり、金貨を札に変えたり、汽車や汽船の切符を買ったり、店で釣り銭をもらったりするときには、中国人が必ず姿を見せる。街頭では何か用事のある顔つきで、元気よく人のそばを通りすぎる。人力車に乗って急いで通るときは、商売に熱中しているときである。彼は生真面目で信頼できる。彼は雇い主からお金を盗み取るのではなく、お金を搾り取ることで満足する。人生の唯一の目的が金銭なのである。このために中国人は勤勉であり忠実であり、克己心が強い。だから当然の報酬を受ける。
(中略)

【伊藤】
彼は、年はただの十八だったが、これは私たちの、二十三か二十四に相当する。背の高さが4フィート10インチにすぎなかったが、がに股でも均整がよく取れて、強壮に見えた。顔は丸くて、異常に平べったく、歯は良いが、眼はぐっと長くまぶたが重く垂れていて、日本人の一般的特徴を滑稽化しているほどに思えた。
(中略)

彼の言うところでは、米国公使館にいたことがあり、大阪鉄道で事務員をやったという。東のコースをとって、北部日本を旅行し、北海道では植物採集家の、マリーズ氏のお供をしたという。植物の乾燥方も知っており、少しは料理もできるし、英語も書ける。一日に25マイル歩ける。奥地旅行なら何でも知っているという。
(中略)

彼は猫のように音もなく階段を上ったり、廊下を走ったりする。私の身のまわりの品物がどこに置いてあるか、彼はちゃんと知っている。何を見ても驚きもしなければ当惑もしない。彼はサー・ハリーパークス夫妻に会うと、深々と頭を下げる。明らかに彼は、公使館がわが家であるかのように慣れている。ただ私の願いを聞き入れて、メキシコ式の鞍と、英国式の馬勒の付け方を、護衛兵の一人に教えてもらっただけである。彼はなかなか抜け目がなく、既に私の旅行の、最初の三日間の準備を整えてしまった。彼の名は伊藤という。これからは彼について書くことが多いであろう。この先三カ月間、彼は守り神として、又ある時は悪魔として、私につきまとうであろうから。

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