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イザベラバードは、明治維新まもない1878年(明治11)5月に来日し、日光・新潟・山形・秋田を経て北海道に渡り、紀行文の日本奥地紀行を著した。日本人に対しては、容姿の貧弱さ、礼儀正しさ、山村の貧困、治安の良さに関する記述が目立つ。イギリスのキリスト教文化からの偏見も見られるが、全体としては日本人の礼儀正しさと親切心には驚いているようだ。

ここでは、全体から抜粋し、バードが見ただろう日本の風景を偲びながら、ややもすれば現代の日本人が忘れている、日本人の原風景を、明治初期の写真とともに掲載していく。

第一信
横浜オリエンタルホテル 5月21日

【江戸湾と富士山】

荒涼たる海原を航海し続けること18日間で、シティオブトーキョウ号は、昨日の朝早くキング岬(野島崎)に到着し、正午には海岸の間近に沿って江戸湾を北進していた。

穏やかな日和で、うす青く空がかすんでいた。日本の海岸線は実に魅力的だということだが、この日の海岸は色彩も形状も少しも目を驚かすものはなかった。そりの深い山の背が、樹木に覆われて、断続的に続き、水際からそびえたって見える。
(中略)

甲板では、頻りに富士山を賛美する声がするので、富士山はどこかと長い間探してみたがどこにも見えなかった。地上ではなくと天上を見上げると、思いもかけぬ遠くの空高く、巨大な円錐形の山を見た。海抜1万3千8十フィート、白雪をいただきすばらしい曲線をえがいてそびえていた。その青白い姿は、うっすらと青い空のなかに浮び、その麓や周囲の丘は薄鼠色の靄につつまれていた。それは素晴らしい眺めであったが、間もなく幻のように消えた。

トリスタンダクーナ山―これも円錐形の雪山だが―を除いては、これほど荘厳で孤高の山を見たことはない。近くにも遠くにも、その高さという雄大さを減殺するものがなにものもないのである。富士山は神聖な山であり、日本人にとっては実に懐かしいものであるから、日本の芸術はそれを描いて飽くことがない。私が初めてその姿を見たのは、50マイルほど離れたところであった。
(中略)

【横浜港】

船が停泊すると、外国人からサンパンと呼ばれる日本船が、どっと群がるようにやってきて船を取り巻いた。私のヒロ(ハワイ)の友人の近親であるギューリック博士が彼の娘を迎えるために上船し、温かく私を歓迎してくれて、下船の世話を万事やってくれた。これらのサンパン船は、とても不格好なものであったが、船頭たちは非常に巧みに船を操り、船と船とが何度突き当たっても、お互いにいやな顔もせず、船頭同士がよくやる悪口罵声は一つも聞かれなかった。
(中略)

彼らはみな単衣の袖の、ゆったりした紺の短い木綿衣をまとい、腰のところは帯で締めていない。草履を穿いているが親指とほかの指との間に紐を通してある。頭の被りものといえば、青い木綿の束を、額の周りに結んでいるだけである。その1枚の着物も、ほんの申し訳に過ぎない着物で、やせた手足の筋肉をあらわに見せている。皮膚はとても黄色で、べったりと怪獣の刺青をしているものが多い。サンパン船の料金は運賃表で定まっているから、旅行者が上陸する際に、法外な賃金を請求されて、気持ちをいらだたせるということはない。

上陸して最初に私の受けた印象は、浮浪者が一人もいないことであった。街頭には小柄で醜くしなびて、がに股で猫背で胸はへこみ、貧相だがやさしそうな顔をした連中がいたが、いずれもみな自分の仕事を持っていた。桟橋の上に屋台が出ていた。これは小ぎれいで、こぢんまりとした簡易食堂で、火鉢があり、料理道具や食器類がそろっていた。それは人形が人形のために作ったという感じのもので、店をやっている男も 5フィート足らずの一寸法師てあった。

税関では、西洋式の青い制服をつけ革靴を履いたちっぽけな役人たちが、私たちの応対に出た。たいそう丁寧な人たちで、私たちのトランクを開けて調べてから、紐で再び縛ってくれた。ニューヨークで同じ仕事をする、あの横柄で強引な税関吏と、面白い対照であった。
(中略)

【人力車】

クルマ、すなわち人力車は、乳母車式の軽い車体に調節できる油紙の幌をつけ、ビロードや木綿で裏張りをした座布団が敷いてあり、座席の下には小荷物を入れる空所があり、高くてほっそりとした車輪が二つある。一対の梶棒は、横棒の両端で連結し、普通車体は漆で塗られており、持ち主の好みに従って装飾されている。真鍮を光らしているだけで、他に何も飾り立てないものもあれば、ビーナスの耳として知られている貝で、すっかりちりばめられているものもある。またある者は、龍の曲がりくねった姿とか、牡丹、あじさい、菊の花、あるいは伝説的人物とかをけばけばしく描いている。
(中略)

日本の大通りは、イギリスの忘れられた田舎町によく見られる、上品で立派な大通りと変わりはないのだが、彼らはそれに似合わぬ自分たちのおかしな姿に少しも気が付いていない。車夫は疾駆し追いかけ、互いに交差する。車夫はどんぶり鉢を逆さにしたような大きな帽子をかぶり、青い妙な股引きをはき、短い紺の半纏には、印や文字を白く染め抜いてある。この愉快な車夫たちは、体はやせているが、物腰は柔らかである。彼らは、町の中を突進し、その黄色い顔には汗が流れ、笑い、怒鳴り、間一髪で衝突を避ける。
(中略)

私は、ほんとうの日本の姿を見るために出かけたい。英国代理領事のウィルキンソン氏が昨日訪ねてきたが、とても親切だった。彼は私の日本奥地旅行の計画を聞いて、「それは大変大きすぎる望みだが、英国夫人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう」と語った。「日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ」という点では、彼もほかのすべての人と同じ意見であった。

第二信
横浜 5月22日

【荷車】

今日は新しい知り合いができたり、召使いや馬を探し始めたり、質問をしても異なった人々から全くくいちがう返事をもらったりして、一日が過ぎてしまった。ここでは、仕事をやる時刻が早い。正午までに十三人の人々が訪れてきた。婦人たちは小さな馬車に乗って町を走り回る。馬車は馬が引き、ベットー(別当)と呼ばれる馬丁が走りながらお伴をする。外国商人はクルマ(人力車)を持っていて、いつも玄関先に置いておき、忠実で利口そうな車夫をつけておく。この方が、なまけもので気まぐれな小さい日本の馬よりも、ずっと役に立つ。
(中略)

窓の外を眺めると、重い二輪車を四人の車引きが引いたり押したりしているのが見える。車には建築材料の石など、ほとんどあらゆる品物が、載せて運ばれる。ひっぱる二人の男は、車の重いながえの端の横木に、両手と腿を押し付ける。後ろを押す二人は、後ろに突き出ている柄に肩を押し付ける。重い荷物を積んで坂を登るときには、きれいに剃った厚ぽったい頭を動力に用いる。彼らの叫び声は、物寂しく印象的である。彼らは信じがたいほどの荷物を運ぶ。一息ごとに呻いたり喘いだりしても思うようにゆかない重荷のときには、彼らは絶え間なく粗っぽい声を、喉からうなり出す。「ハーフィダ、ホーフィダ、ワーホー、ハーフィダ」と叫んでいるようだ。

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