後藤寿庵は、江戸時代初期に切支丹弾圧が激しくなりつつある時期に、ローマと連絡がとれる唯一の日本人だった。

寿庵は、戦国時代末期に葛西氏の重臣である岩淵家に生まれた。天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥州仕置きで主家葛西氏は没落し、九州に落ち延びてキリスト教を信仰するようになり、さらに五島列島の宇久島に隠れ住んで後藤を姓としたという。名の「寿庵」は、その洗礼名からとっている。

慶長8年(1603)ルイスソテロが、フィリピン総督の書簡,贈物を携えて来日し,徳川家康,秀忠に謁見した。当時、徳川家康はメキシコ貿易開設を望んでおり、ソテロはその斡旋役として尽力し、江戸での布教も許された。ソテロは江戸で病院を開設し、病人の世話をしながら布教をしたという。このような時期に、寿庵はソテロと出会い、行動を共にするようになった。

この当時、江戸にいた伊達政宗の側室が病を得てはかばかしくなく、治療をソテロに依頼したところ側室の病は全快した。このことで、ソテロと寿庵は伊達政宗の知遇を得るようになり、伊達領での布教も許された。

当時の政宗は、天下への野望を捨てておらず、西洋の製鉄技術、金の精錬技術、大船建造技術などに強い関心を示し、どん欲にこれを吸収しようとした。とりわけ、火薬の原料となる硝石を得るためにメキシコとの貿易には強い関心を示した。政宗はその実現のために慶長遣欧使節を立案し、大船を建造させ 、慶長13年(1608)ソテロは支倉常長らとともに渡欧した。

寿庵は、政宗とソテロの間の通訳としこれらの計画に関わったが、寿庵自身もキリシタンとの長い関わりの中で西洋技術の知識は深く、政宗も大いにこれを認め、家臣に取り立てた。寿庵は、大阪冬の陣、夏の陣に出陣し、鉄砲隊60人を指揮し、その功により、現在の岩手県奥州市水沢区福原の地に1200石を給された。

この地は、かつては葛西氏が治めていた地であり、寿庵は葛西氏の旧臣や領民を集め、原野に大規模な用水路を造り開墾し、また天主堂やマリア堂などを建てた。家臣らのほとんどが信徒となり、全国から宣教師や信徒が訪れ、それはまさに小さな「神の国」となっていった。

伊達政宗は、キリシタンに対して比較的寛容だった。正室の愛姫も、息女の五郎八姫も、キリシタンであり、その教えを捨ててはいなかった。そのようなこともあり、次第に厳しさをます弾圧を逃れ、各地からキリシタンが伊達領に逃れて来ていた。

しかし、徳川家光の代になってキリスト教の禁止が厳しくなり、伊達政宗も取り締まりを命ぜられた。伊達領の中でも特に後藤寿庵の福原では、ガルバリヨ神父が熱心に布教活動をしており、そのままにはしておけなかった。それでも政宗は、有能な家臣である寿庵を惜しみ、布教をしないことを条件に信仰を許そうとした。しかし寿庵はこれを拒み、元和9年 (1623)、福原における最後の耶蘇降誕祭を終えて伊達家を出奔した。

白石の伊達家の重臣である片倉小十郎がその追討を命じられたが、寿庵に対しては同情的であり、白石から1ヶ月をかけて福原に入り、意図的に切支丹を逃したようだ。

ガルバリヨ神父は、名を日本名に変え、他の切支丹とともに江刺の金山に入り、鉱夫として働いていた。金山の作業はつらく苦しいもので、なり手が少なく、そのため鉱夫の経歴が詮議されることはなかった。しかしガルバリヨは、いかに姿かたちを変えようと日本人との面立ちとは異なり、ついに密告する者が表れ捕縛された。

愛姫や五郎八姫の嘆願もあり、政宗は布教をしないことで命だけは助けようとしたが、ガルバリヨはこれを拒否し、またガルバリヨに従い、キリシタンであることを名乗り出る者もあらわれ、やむを得ず仙台に送られた。ガルバリヨら8人は、真冬の2月、仙台城大橋付近の広瀬川に作られた水牢に入れられ殉教した。

後藤寿庵のその後の消息は定かではないが、出羽秋田藩の稲庭付近に、陸奥仙台藩領から厳中と名乗る男がやってきて、大眼宗なる宗教を広めたといい、これが寿庵ではないかとされる。信者らは太陽と月を崇拝し、眼の紋の入った羽織を着用し、仙北地方から内陸南部にかけて、秋田藩領の鉱夫の間に瞬く間に広がった。

秋田藩は大眼宗を、キリスト教と同義であるとして教祖厳中を捕縛した。これに対して信者百人以上が押しかけ、役人らと乱闘の末に厳中を奪い返し、厳中はそのまま逐電した。秋田藩にも佐竹義宣の側室の岩瀬御台など、密かにキリスト教を信仰していた者がいたようで、寿庵は厳中としてそのようなネットワークの中で活動していたのかもしれない。

しかし幕府の徹底した弾圧により、その後キリスト教が表に出ることはなく、その命脈は隠れキリシタンとして各地に伝説を残すだけとなった。

宮城県登米市に寿庵の墓と伝えられるものがあり、その地に残る伝承では、寿庵は晩年、南部藩の浪人としてその地に住み着いていたが、伊達政宗の死後に吹き荒れた切支丹弾圧の中で密告され、その地で刑死したと伝えられる。その遺体は近くの山中に、この世に出てこないようにと逆さまに、上に大きな鉄のなべをかぶせられ埋められ、その跡には桂の木が植えられ、最近までそれは残っていたと云う。現在残る墓石は子孫によって立てられたもので、墓碑銘はなにも書かれていない。

大正3年(1923)、後藤寿庵は、その治水の功により従五位が贈られた。昭和6年(1931)には彼の館跡に寿庵廟堂が建てられ、毎年9月に寿庵祭が行なわれている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です