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国道7号線を弘前から青森方向に走り浪岡町に入るとすぐに城址の表示があった。そこから7号線を東に入り、1.5kmほどの所に「浪岡城」の標柱があった。

浪岡城は、南北朝期に奥羽の軍勢を組織し、度々足利尊氏を京都から追い落とし、さらに戦況が不利になってからも各地を転戦し、北朝方の幕府勢を悩ませた北畠氏が遂の本拠とした城だ。この地に落ち着くまでは多くの艱難辛苦があったはずで、それは伝説として東北一円に広がっている。南北朝期以降、戦国期に至る東北の歴史は、南朝方として駆け巡った北畠氏の事績に大きく関わっていると言っても過言ではないだろう。

北畠氏は、南朝方の雄であった南部氏の庇護を受けて、この地に落ち着いたのだろう。しかしそれは、南朝の再起を期しての仮のものであったはずだ。しかし、時代が進み、武家社会が確立し、さらに激動の戦国期に入って行く中で、公家としての北畠氏はその権威を維持しながらも、いやおうなく武家としてこの地域に武威を張って行く事になる。

標柱のところから入って行くと、そこは広々とした公園になっていた。地形的には平城だったはずだが、それにしても城跡らしい形跡がない。東側が一段高くなっており、南側に川が流れている。人工的と思われる段築があり、小さいながら堀跡らしい地形もある。写真を撮る。しかし説明板もなくどうにも納得がいかない。

ここまでは公園内の道は舗装されていたが、その先は舗装は切れて、道も狭く底をこするような道だ。しかし納得のいかないままで引き下がるわけにはいかない。車に乗り南側のダートな道を奥へと乗り入れた。

すると、公園とは明らかに異なる空間に出た。紛れもない城跡だ。馬場の様な広い空間の先に、平城ながら城塁のように高い土壇が見える。解説板もある。多少がっかりしていたこともあり、身内が震えるような興奮を覚えた。解説板を見れば、城域全体が水堀で区画された水城で、公園から見た段築は、この城のほんの西のはずれの郭だったようだ。

しかし、この城の興奮は、まだほんの手始めに過ぎなかった。

朝に降っていた雨の影響で、足元の草は濡れ、靴の中はすでにぐしゃぐしゃだったが構うことはない、はやる気持ちで奥へ進んだ。正面の城塁を上ると広々とした郭跡が広がっている。説明版には内郭とあり、この城の本郭なのだろう。その先はどうなっているのか、カメラのシャッターを切りながら、走るように先に進む。

郭のはずれから水堀を見渡すと、水堀は広く、各郭を縦横に区画している。さらには、それぞれの水堀の中央には武者走りが設けられ、そのため水堀は二重堀の状態になっている。敵が侵入したときには、この水堀の中央の道を通るしかなく、両側の高台の郭から雨のように矢玉が降り注がれるのだろう。

武者走りから郭に入るには、小さな木橋を通り、それぞれの郭に設けられた虎口から入ることになり、虎口にも厳重な守りがほどこされていただろう。各郭を繋ぐ武者走りは、遊歩道のように整備され、水堀には小さな木橋が復元されている。当然次の郭に進んだ。

北郭に向って武者走りを進んだ。遊歩道としては快適だ。しかし、戦の時には、両側の郭から無数の矢玉が降り注ぎ、郭の虎口から城兵が溢れるように向ってくる状況が目に浮かぶ。

北郭に入ると、そこは調査がなされたのだろう、板塀がまわされており、井戸跡も各所にあり、多くの屋敷があった様子がうかがえる。北郭から北に抜けると、そこにも中央に武者走りをまわした広い水堀があり、こちらが大手口らしい。

築城時期を考えれば、その大きさといい技巧といい、傑出したものだ。しかし北畠氏も内紛により勢力が衰え、難攻不落とも思えるこの城も、結局大浦(津軽)為信により攻められ没落した。栄枯盛衰諸行無常である。

現在、この地には観光のための模擬天守など妙な建物などもなく、往時の地形を良くとどめている。復元整備は喜ばしいことだが、時代考証に沿ったものであればと願うばかりだ。