伊達政宗は、天正13年(1585)8月、小浜の大内定綱攻撃に米沢から軍を発し、大内氏の支城である小手森城を撫で斬りにした。この撫で斬りは、周辺の大名や住民にも強烈なインパクトを残し、それまで幾重にも及ぶ姻戚関係の中で、互いに決定的なダメージを与えられずにいた南奥羽の秩序がこれにより崩壊した。

大内定綱が、長きにわたり策を巡らしながら獲得した塩松の独立は、伊達勢の前にあっという間に瓦解したのだ。定綱は姻戚関係にある畠山義継を頼り、一族を引き連れて二本松に走り再起をはかろうとした。しかし畠山義継はすでに戦意はなく、大内勢を城から引かせ、定綱らはやむを得ず会津の葦名を頼って落ちて行った。

伊達勢は間もなく二本松に押し寄せたが、義継は戦う意思のないことを伝え降伏した。しかし政宗の処断は苛烈だった。二本松付近のわずかな土地を除き、所領はことごとく没収することを宣した。それは畠山氏の、大名としての滅亡を意味するものだった。

畠山義継は、二本松領と境を接する八丁目城の、伊達成実の父の実元に和議を求めてきた。伊達実元は、伊達氏宗家が天文の乱後に米沢に立ち退いてからも、大森城にあり伊達氏本貫の地を守っていた。畠山氏は、伊達実元とも姻戚関係にあり、仙道地域を抑えるうえで、お互いに外交的な関わりもあった。また輝宗もこれまで、仙道地域を抑えるために畠山氏を利用していたこともある。

この畠山氏の処遇を巡り、輝宗、実元は、できれば穏便におさめたいと考えていた。しかし政宗や成実らの若い幕閣たちは、そのような生ぬるい対応が、結果として仙道地域を長く混沌の中に置いているとの思いがあった。結局は、輝宗らの意見も組み上げ、これまでの二本松三十三ヶ村の内、五ヶ村だけを残し、嫡男の国王丸を人質に出させることで決まり、その旨を二本松に申し送った。

その後、義継は会津の葦名を頼ろうとしたが、大内定綱を二本松で受け入れなかったことで、結局葦名氏や佐竹氏の信も失ってしまっていた。葦名からも色よい返答はなく、結局は政宗の条件を飲むしか畠山の家名を存続させる手はなさそうだった。

その年の11月、宮森城の伊達輝宗のもとに畠山義継主従が訪れた。主従は平服で、戦意のないことを示していた。城は兵たちであふれ返り、その多くはまだ戦支度を解いてはいなかったが、戦勝気分にあふれていた。周辺の土豪たちが伊達勢に加わるためだろう、次々に訪れており、その多くは見知った者だった。

義継が輝宗を待つ間、供の者の一人が、伊達の侍たちが、義継を亡き者にする談合をしているのを耳にしたと知らせてきた。それが真実かどうかは確かめようもなかった。義継が輝宗への挨拶をすませ帰ろうとすると、輝宗が見送りに出てきた。あの供の者の「義継を亡き者に」は杞憂に過ぎなかったのだろうと義継が考えているさなか、重臣の一人が輝宗の一瞬のスキをつき、脇差を抜き放ち輝宗の首に押し当てた。あっという間のできごとだった。

義継の意とは異なるが、こうなれば、輝宗を人質として二本松に戻り、仙道の大小名に激をとばし、徹底抗戦しかほかはなかった。驚き狼狽する伊達の将兵たちを尻目に、義継主従は刀を抜き放ち、輝宗を取り囲み二本松へと向かった。宮森や小浜の兵たちが手近な武器を携えて義継主従を追いかけるが、手出しすることも出来ず、ただ遠巻きにしながら追うだけだった。

急を聞いて駆けつけた政宗を見つけると、輝宗は「このまま質にとられるは武門の恥ぞ、こやつら諸共撃てー」と叫んだ。すでにこの奇妙な集団は二里ほどをすすみ、二本松領との境の阿武隈川近くに差し掛かっておりもう一刻の猶予もなかった。ついに政宗は義継主従の殲滅を命じた。鉄砲が火を噴き、伊達勢は一気に義継主従に襲い掛かった。

この事件で義継主従は全員討ち死にし、輝宗も巻き込まれて死亡した。義継の遺骸は原型もとどめないほどで、藤弦でつなぎ合わされさらされた。輝宗の初七日を終えると、政宗はすぐに二本松城攻めを開始することになる。

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