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天正15年(1587)9月、最上勢と東禅寺勢は大宝寺氏を攻め、尾浦城を落とし大宝寺義興は自害し大宝寺氏は没落した。しかし義興の本庄氏からの養子義勝は、越後国境に近い小国城に逃れていた。庄内地方の国人たちは、大宝寺氏に心服しなかったのと同様、最上氏や東禅寺氏に対しても臣従したわけではなかった。東禅寺の無節操と最上氏が謀略をもって大宝寺氏を滅ぼしたことに、反感を持っている者も多かった。義勝の実父の本庄繁長も、この庄内の状態を座視しているはずもなかった。

天正16年(1588)正月早々、本庄繁長は上杉景勝の後援を受けて庄内奪還をはかって兵を挙げ、庄内への進攻を開始した。軍勢は本庄氏直属の将兵に、平林城主の色部、黒川城主の黒川、中条城主の中条、大場沢城主の鮎川、府屋藤懸城主の大川であった。それに庄内の小国や、観音寺城主の来次 氏が手引きをした。最上義光は東禅寺義長や、尾浦城将の中山朝正に警戒させていたが、本庄勢の意気は盛んで、国境の最上の支城が攻め落とされた。最上義光はこの時期、伊達政宗に対する戦略上、庄内方面まで手がまわらず、これに対して十分な対処ができなかった。また、国境の小競り合い程度と楽観的に考えていた節がある。その後も本庄繁長は庄内攻略を進め、同年八月、十五里ヶ原において、最上・庄内勢と本庄・越後勢は激突した。

本庄勢は、本隊を山通りの出羽街道に進め、別働隊を矢羽木式部に預けて海通りの出羽街道を北進させた。最上方の前線基地はたちまち破られ、最上の中山朝正が篭る関根城も陥落し、朝正は 尾浦城に退いた。

最上・庄内勢は大宝寺・尾浦の両城に主力を置いていたが、城中や城下で寝返る者が続出したことから、東禅寺義長、勝正兄弟は籠城策を放棄し、大宝寺城と尾浦城の中間地点の千安川に陣を布いた。千安川付近は十五里ヶ原と呼ばれ、未開の原野が広がり、三つの渓谷が並流する天然の要害であった。しかし、多勢に無勢であり、最上方の勝機は小さかった。本庄繁長も、尾浦城を攻めるのは犠牲が大きいと判断し、千安川の最上勢を討つため、尾浦・千安川の間に陣を構えた。繁長は兵力を二手に分け、一隊を夜陰に紛らせ敵の後方に回らせ、夜明けとともに挟撃した。

本庄繁長は長男の顕長や、二男の大宝寺義勝らを尾浦城に備えさせ、自らは東禅寺に攻め掛かり、両軍すさまじい激戦となった。そこへ本庄顕長の備えを破って尾浦勢が出撃してきた。しかし越後勢に内通していた城兵の放火により、尾浦城、大宝寺城が燃え上がった。

大宝寺義勝勢は小国、高坂らの勢とともに尾浦勢と戦った。繁長は千安城を焼き立て、人数を繰り出し、東禅寺の旗本へ切ってかかった。庄内勢は前後に越後勢の攻撃を受け、ついに敗走、千安川に溺死する者数知れずという状況に陥った。こうして大勢は決したが、東禅寺は敗兵をまとめ、乾坤一擲 、黒瀬川で最後の戦いを挑んだがまたも敗北し、一族郎党とともに討死した。急報に接した最上義光は直ちに大軍を率いて六十里越えを急いだが、間に合わず途中で兵を引いた。

最上方の敗北が決した後、生き残った東禅寺勝正は、越後勢に紛れて本庄繁長の本陣に単身乗り込み、首実検をよそおい、名刀正宗を抜き放ち本庄繁長に討ちかかった。勝正は繁長に数太刀を浴びせたが 討ち果たすことはできず壮絶な討ち死にをしたという。

こうして、本庄繁長の率いる越後勢は最上勢に壊滅的打撃を与える大勝利を得た。敗残の最上勢は所々に抵抗したが、繁長は各箇撃破して最上川の川北に攻め入り、たちまち庄内全域を平定した。その後、自らは酒田の東禅寺城に居城し、次男義勝は尾浦城に入って戦後処理に当たった。

この戦いについて最上義光は本庄繁長の庄内攻撃は秀吉の私闘禁止令に違反するとして訴えた。豊臣秀吉は使者を派遣して関東奥羽の総撫事令に従い、本庄氏の庄内攻撃を停止するように命じた。しかし、本庄氏は庄内は本来大宝寺氏の領地で、ここを侵略した最上氏の方が不当であると主張し、結局大宝寺義勝は豊臣秀吉に拝謁し、義勝は秀吉から豊臣姓を与えられ、官位も受けるという形で庄内支配権は義勝に認められた。

かくして、庄内地方は上杉氏配下として本庄繁長、大宝寺義勝父子が支配するところとなった。本庄氏の庄内領有の安堵は、豊臣政権に対する最上義光の外交の敗北でもあった。

天正18年(1590)、小田原北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は「奥州仕置」のために奥州に下った。そして、秀吉の命を受けた上杉景勝は庄内に入り、由利郡、仙北郡などの検地を押し進めた。景勝の検地は9月初旬に概ねその作業を終え、中旬には秀吉から帰国の許しを得て帰国の途についた。ところが、10月、奥羽各地に土豪が中心となって一揆が起きた。結局一揆勢は鎮圧されたが、一揆の平定後、本庄繁長と大宝寺義勝父子は一揆を扇動した嫌疑により大和に流罪になった。

上杉景勝は、尾浦城には下吉忠を、東禅寺城には志駄義秀を配し、庄内は上杉の直接支配下に入った。その後、本庄繁長と大宝寺義勝父子は許されて繁長は上杉氏に復帰し、大宝寺義勝は本庄に復して繁長の跡を継いで本庄氏の当主となった。ここにいたって、大宝寺氏は名実ともに歴史からその名を消した。