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みちのく奥の細道紀行…境の明神~白河の関

◆序文◆

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の 思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋*に蜘の古巣をはらひて、や ゝ年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神*のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

草の戸も 住替る代ぞ ひなの家

面八句を庵の柱に 懸置。

【陸奥へ】
元禄2年(1689)旧暦4月16日、芭蕉は千住で見送りの人々と別れ、初日は草加を経て、粕壁で宿泊しました。「行き交う年月も旅人であり、船頭も馬子もまたすべて旅人」と序に記した芭蕉でしたが、家も売り払い、慣れ親しんだ暮らしに区切りをつけての旅立ちは、やはり不安と惜別の念が去来したことでしょう。随行の曾良もまた、剃髪し墨染めの衣を身に着け、僧侶の姿でこの旅に臨み、これまでの暮らしへの惜別の念を断ち切っての旅立ちだったようです。
草加では、「只かりそめに」思い立った「奥羽長途(ちょうと)の行脚」に、「もし生きて帰らばと定めなき頼(たのみ)の末をかけ」と悲壮とも思える心情を吐露しています。しかし、日光、那須、これまでの非日常の旅が日常になるにつれ、一句一句が光を放ち始めます。そしていよいよ陸奥へと入ります。

【境の明神】
松尾芭蕉は、旧暦の4月20日、この境の明神に到達しました。ようやくこの旅の目的の陸奥(みちのく)に一歩を踏み入れたのです。奥の細道の序章で
…春立(たて)る霞みの空に、白河の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ…
とあり、この境の明神を越えるときには、その感慨はひとしおのものがあったろうと思われます。
奈良時代から平安初期にかけて、国の境には関の明神として男女一対の明神を祀る習慣があり、奥州側には玉津島神社、関東側には住吉神社があります。江戸時代には、奥州街道は現在の国道294号線のこの白坂の地を通っていましたが、それ以前の東山道は、現在の県道76号線が走る旗宿を通っていました。これを聞いた芭蕉は、「白河の関」をたずね旗宿に向かいました。

【庄司戻しの桜】
旗宿のはずれで、「庄司戻しの桜」を眺めたようです。
1180年、源頼朝の挙兵を知った源義経は、奥州平泉から鎌倉に馳せつける途中、この地を通りました。義経には信夫の庄司、佐藤基治の子の継信、忠信が従っていましたが、主従が鎌倉に向かう途中、佐藤基治はこの地まで見送ったといいます。別れにあたり基治は、継信、忠信に対し「汝ら忠義の士たらば、この桜の杖が生づくであろう」と諭し、携えていた一本の桜の枝をこの地に突き立てました。この後、継信は屋島の戦いで義経の身代わりになって矢を受け討ち死にをし、忠信は、源頼朝に追われ吉野に逃れた義経を逃すために、単身京の義経の館に戻り、鎌倉軍と戦い自害しました。桜はその忠節に感じて活着し繁茂したと伝えられます。

◆白河◆

心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ。「いかで都へ」と便求しも断也。中にも此関は三関の一にして、風騒の人心をとヾむ。秋風を耳に残し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとヾめ置れしとぞ 。

卯の花を かざしに関の 晴着かな   曾良

【白河の関】
翌朝、霧雨の降る中、宿の主人に教えられた明神祠に参拝していますが、其処こそが白河関跡地でした。白河関は福島県いわき市の勿来関、山形県鶴岡市の念珠関とともに、奥羽三関と称される古代関で、律令制時代に制定された古代官道である東山道に設置されていました。白河の関は、古くより陸奥への関門として歴史にその名を残しているだけではなく、歌枕として数多くの歌に詠まれた場所で、西行、一遍、宗祇など和歌や仏教で有名な文化人がこの地を訪れています。

※「都をば 霞とともにたちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関」…能因法師

またこの地には、前九年、後三年の役で知られる源頼義、義家父子や、頼朝の挙兵に駆けつける義経らもここを通ったと考えられ、今も多くの伝承が伝えられています。しかしその後、街道は白坂越えと呼ばれるルートをとることになり、その後、関の位置も定かではなくなり、江戸期の白河藩主松平定信がもろもろの調査の結果をもとに現在史跡として定められている旗宿の地と推定し、碑を建立しました。

【関山】
旗宿を出た芭蕉は関山に向かいました。関山の歴史は古く、730年に行基が満願寺を開山したときに始まります。その当時の関山には、山麓から山門や伽藍が山頂まで続いていたと云います。この関山満願寺には、聖武天皇の勅願によって、行基が光明皇后の守本尊の正観世音菩薩を奉持し、満願寺を創立したと伝えられます。737には、聖武天皇の勅命により良弁僧正の金銅の正観世音が奉安され、また弘法大師が使用した、五智宝冠が安置されています。しかし何度となく襲った山火事で大方の建物は焼失し、現在山頂に建つ小さなお堂は、1945年の大火事の後に建てられたものです。

その後、芭蕉と曽良は、白河城下から矢吹宿へ向かいます。

 

みちのく奥の細道紀行…白河城下~須賀川宿

白河の関を訪ねた芭蕉と曽良は、白河城下に入ります。

【白河】
芭蕉は白河に立ち寄り、手紙などを託しそのまま須賀川へ向かいます。芭蕉が見ただろう白河城は、1627年に、丹羽長重が、2代将軍徳川秀忠の命で築いたものです。しかしその後白河は、普代大名、親藩大名が頻繁に入れ替わり、芭蕉が訪れたときは、奥平松平氏の城下町でした。
この城下の街道沿いに、「宗祇戻し橋」があったといい、その地に現在碑が立っています。この地の連歌の会に来た宗祇が、綿売りの女に声をかけたところ、大変機知にとんだ歌を返したので、宗祇は、綿売りの女でさえこれほどの歌の心得があるのかと驚き、都へ引き返したと伝えられます。

【矢吹】
奥州街道を北上すると矢吹宿に入ります。矢吹は、1578年頃に宿駅として開設され、その後奥州街道が整備されると、街道は陸奥と江戸をつなぐ主要街道として発達し、大名行列をはじめ奥州と江戸とを行き来する旅人などが急速に増加しました。後に十返舎一九がこの矢吹を紹介しており、それには「大根いりそばきり」が名物とされ、さらにこのそばよりも女中の器量の良さが評判と書かれています。

芭蕉と曽良は、矢吹に午後5時過ぎに到着し、ここで一泊しました。翌日は、江戸で親交のあった須賀川の豪商相楽等躬を訪ね須賀川に向かいます。

【かげ沼】
芭蕉はこの鏡沼近くを通り、奥の細道に
「かげ沼と云う所を行に、今日は空曇りて物陰うつらず」
と書いています。この地一帯には、当時大小の沼があり、一種の蜃気楼現象が現れ、道行く人が水中を歩くように見えることで有名であったためです。
この「かげ沼」は「鏡沼」とも考えられています。福島県岩瀬郡に配流された和田義盛の甥の和田胤長を案じ、訪ねてきた妻の天留(てる)が、鎌倉よりこの地に到り、里人に夫の死を知らされ、鏡をいだき沼に入水して果てたといいます。その時天留が胸に抱いていた鏡が、沼の底で光り輝いていたことから、以来この沼は鏡沼と呼ばれるようになったと伝えられます。

【須賀川宿】
芭蕉は、江戸で顔なじみだった須賀川宿の豪商の相楽等躬宅に投宿しました。
須賀川は鎌倉時代以降、二階堂氏の城下町として栄えましたが、1589年、伊達政宗に攻められ、城は落城、二階堂氏は滅亡しました。江戸時代には白河藩領となり、奥州街道屈指の宿場町として栄え、独自の町人文化も花開き、俳諧も盛んでした。芭蕉はこの町に8日間に渡り滞在し多くの句を残しました。

【相楽等躬邸跡】
相楽等躬は、須賀川宿で問屋を営み、須賀川の駅長の要職をつとめていました。また須賀川俳壇の中心的な人物で、芭蕉とは、問屋の用向きで江戸に上ったとき、俳諧を通して知り合ったようです。芭蕉が須賀川に長期逗留したのもそのときの親交があったからと思われます。