元和四年(1618年)四月十三日未明,伊達軍の南部侵攻が始まった。その前日夕に,岩崎城の明助のもとに,後藤寿庵から使いがあった。短く「四月十三日,伊達進発」とだけあった。

明助は花巻にすぐに使いを走らせ,花巻城の守りを固めさせた。十三日昼前には伊達勢が明助の岩崎城を囲み始めた。明助は物見の者に叫んだ。
「伊達勢の将は誰か」
「笹竜胆(ささりんどう)の紋は和賀の紋。伊達勢およそ一千!」
「なに!」
明助が物見櫓に駆け上がり,指し示された方角を見ればまさしく和賀氏の紋の笹竜胆の旗が翻っていた。

伊達領の松山には,和賀の一党が匿われていると噂では聞いていた。また,かつて和賀忠親の忘れ形見で,明助自身の甥にもあたる乳飲み子を,白石宗直(しろいしむねなお)と諮って一関の山深くに匿った。十六歳になっているはずだった。
「なんと,和賀の一族がこの岩崎に旗を立てるのか」

この日の来ることを見越して,明助は岩崎勢の多くは花巻の城を守らせていた。伊達勢一千に対して,岩崎に残っている兵はおよそ百五十程であった。
「誰が主将かのう」
明助は楽しみであるかのように笑った。

 

明助はわずかな兵を本丸に残し,残りの兵はすべて二の丸に集め,北側からの城への登り道に備えた。この城へ上がる道はこれしかなく,あとは急峻な崖により三方を囲まれていた。明助はかなわぬまでも存分に戦うつもりでいた。

伊達勢は夏油(げとう)川の浅瀬をわたり,城の北側の平地と,西側の三の丸に布陣した。ひとしきり軍を整えていたが,三人の武将が白旗を掲げて騎馬にて大手口を上ってきた。
「打ってはならんぞ」
明助は兵達に命じた。

三人の武将は二の丸に入る門口で馬から下りた。最も若い武将が進み出て,油断無く上から見下ろす岩崎の兵たちに向かって叫んだ。
「開門くだされえ。それがしは,かつて柏山の伯父御から格別のご厚情を賜った和賀忠親の一子久米之助(くめのすけ),元服し和賀忠廣(わがただひろ)と申す。あいさつにまかりこした。御開門くだされえ。」
「何!久米之助だと」
明助は,やれやれこれは困ったと言うように,後首を手にした軍扇でポンポンとたたいた。兵たちからはどよめきが起きていた。無理も無かった。この兵たちの多くは,なんらかの形で和賀とはつながりが深かった。
「お通し申せ!」
明助は命じた。

 

門が開き,三人の武将が二の丸内に入ってきた。明助の前で,兜の緒をとき,兜を小脇に抱え,深々と一礼した。名乗りを上げた若者は片膝を地に付け,
「伯父御には物心つきましてから始めてお目にかかります。御息災な様子,なによりと存じ上げます。母からもよろしく伝えるように申し付かってまいりました」

壮年の武将が名乗った。
「それがしは,和賀忠親の舎弟(しゃてい)で,和賀義弘(わがよしひろ)と申します。柏山殿のご厚情はかねがね義姉上からも聞いておりました」

白旗を掲げてきた老将は目を真っ赤にして顔は涙でくしゃくしゃだった。
「殿,小原房正(おばらふさまさ)でございます。お懐かしゅう御座います。お預かりしていた忠廣殿をお連れいたしました」
明助は苦笑した。
「いやいや,これでは戦にならぬわ」
と内心つぶやいた。これも伊達殿の謀略かと苦々しい思いもあったが,このような謀略ならそれも良いかとの思いもあった。

 

明助は三人の武将を二の丸の広間に通した。ひとしきりそれぞれの苦労話で座が盛り上がっていた。忠廣の様子は、日陰に咲いていた花が,日の当たる場に出され,一気にその色を鮮やかにしたような感じだった。明助はうらやましく感じた。
「ところで,この場は伊達と南部の戦の場じゃ。どうしたものかのぅ」
明助が本題の口火を切った。
「そのことでござるが…」
和賀義弘が答えた。
「我らは白石宗直殿から,囲むだけで,柏山殿とは戦わないように指示を受けております」
「宗直殿は,此度はどちらにおられるのじゃ」
「本日,花巻の城を囲んでいるはずです。宗直殿からは,是非に花巻にお出でいただくように言われております」

和賀義弘は,白石宗直から明助には伊達勢の布陣を包み隠さず言っても良いと言われているということで,南部攻めに当たっての伊達勢の布陣の大まかなところは全て話した。

伊達は徳川との手切れを前提としての南部攻めであるらしく,徳川と伊達の戦はいざ知らず,南部方に勝ち目はないと思われた。出羽や津軽の出方は気になるが,伊達政宗のこれまでの慎重さからすれば,当然それには手を打っているだろうことは明らかだった。

明助は,花巻の政直のことが気になっていた。
「わかった,花巻に参ろう」
明助は答えた。

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