翌年,元和二年(1616年),南部政直は十八歳になっていた。母を早くに失い,父の利直の愛情にも疎遠ではあったが,母の性格を強く受け継いだか,慈しみ深い青年に育っていた。

北信愛からの治世を良く引き継ぎ,明助の適切な助言もあり,北信景の事件で一時南部から離れた領民の心を,次第に取り戻しつつあった。肌身離さず,母の形見のマリア観音像を身につけ,いつのまにか切支丹に傾倒していた。

明助にも何かにつけ切支丹の教えについて尋ね,また洗礼を受けることを希望していたが,明助はそれをはねつけていた。世はすでにはっきりと切支丹を抑圧する方向に動いていた。

徳川に忠節を尽くすことでしか生き延びることが出来ない世になっており,その徳川は切支丹の禁教の方向で動いていた。南部藩はそれに逆らうことなどできるわけも無かった。明助は自身が切支丹ではあったが,政直には切支丹には極力近づかせなかった。

 

この年の五月,南部利直は,江戸へ上る途中に花巻に立ち寄った。その道中,見事な山鳥を射止めたということで,大いに機嫌が良かった。明助は利直のあまりの機嫌のよさにいささか奇異なものを感じていた。それでも,北信景の一件で,利直に対して心を曇らせているものの多い花巻であることから,利直一流の強がりとも思えた。

南部利直は政直の近習に山鳥を差し出し,これを蕎麦がきに料理するように命じた。政直にとっては疎遠な父ではあったが,久方ぶりの父親との対面に心を浮き立たせていた。

本丸の広間に席が設けられ,正面に利直が座り,その脇に政直が座した。一段低く数人の重役が座り,一番下座に明助が座した。座は花巻への途中の狩の話で盛り上がっていたが,だれも大阪の陣の話は避けている様子だった。信景の件が利直や重役の心に引っかかっているからだろうと明助は思った。

 

政直の近習達によって料理が運ばれてきた。本膳の一際大きい秀衛(ひでひら)塗りの椀に,山鳥の蕎麦がきが入っていた。近習が南部利直や政直,重役たちの前に膳を運び部屋を下がった。

ところが、その近習の一人が部屋の下座に座り平伏したまま部屋に残り下がらなかった。岩淵秀勝(いわぶちひでかつ)という政直の一歳年長の近習であった。政直とは気が合うらしく明助もなにかと目をかけていた者だった。

明助は怪訝に思い声をかけた。
「いかがした,秀勝」
秀勝は肩を小刻みに震わせていた。政直が上座から声をかけた。
「いかがした,秀勝,無礼であろうが」
突然,秀勝は立ち上がり,あっという間に政直の前に駆け上がり,
「お毒見いたす」
と叫ぶなり,蕎麦がきを掻き込んだ。

南部利直は血相を変えて立ち上がり,秀勝を睨みつけ荒々しく立ち去った。重役達はオロオロと利直の後を追い部屋を出て行った。明助は秀勝のところに駆け寄り,突っ伏している秀勝を抱え上げた。秀勝は苦悶の表情でうめいていた。

翌朝早く,利直の一行はそそくさと江戸へ発った。その夜遅く秀勝は絶命した。

 

その年の十二月,伊達領の福原の後藤寿庵(ごとうじゅあん)から降誕祭への誘いがあった。後藤寿庵とは切支丹のつながりで,明助はこれまで数度福原でのミサに出席していた。しかし今度は多少事情が違うらしい。添え書きには
「厳しい話をしなければならないこともあり」
と書いてあった。

明助はどうするか迷っていた。政直の母の於楽の方のことを思い出した。於楽の方は死の間際に明助の手によって洗礼を受けた。最後に安らぎを得たように笑みを浮かべていた。

明助は決心した。南部政直にこのことを告げて,政直が望むならば洗礼を受けさせようと。政直は岩淵秀勝の一件以来,あまり口をきかなくなっていた。

明助は政直のもとに上がって,後藤寿庵からの誘いのことを包み隠さず話をした。政直も深く思うところがあるらしく,洗礼を受けることを望んだ。

 

降誕祭には,南部政直は明助の従者と身分をいつわり福原の地を訪れた。明助は政直にこの地での後藤寿庵からの話を逐一報告した。何も付け加えず,そのままを話した。寿庵の話は,明助や政直の生死を左右するものだった。政直は黙って聞いているだけだった。

降誕祭の日,明助と政直はガルバリヨ神父から洗礼を受けた。洗礼を受けたとき,政直は母の最期の姿を思い出してか泣いていた。

その夜,ろうそくの灯がキリスト像を赤く浮かび上がらせていた。その前でのガルバリヨ神父の浪々と唄う祈り。少年達のグレゴリオ聖歌。マリアの再来と敬慕されている五郎八姫(いろはひめ)の祈り。政直は明助に囁いた。
「奇跡とはこういうものか。この地,この夜は南部でもなければ伊達でもない,神の御国の夜ぞ」
翌日,福原からの帰途,政直は無言であった。

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