慶長十八年(1613年),柏山明助(かしやまあきすけ)は南部利直(なんぶとしなお)から岩崎城を預かっていた。明助の直接の主は,南部利直の次男でこの年十五歳で花巻城主となった南部政直(なんぶまさなお)であった。

利直の正室の武姫(たけひめ)に男児が生まれ、武姫の悋気もあり,庶腹の政直は何かと疎まれた存在であった。そのこともあってか,政直は元服してまもなく,一昨年の四月に,その母の於楽の方とともに花巻の城に入った。

於楽の方は身分の低い出自であったため,南部家中に,於楽の方やその子の政直を支える有力な家臣はあまりいなかった。於楽の方は,体も丈夫ではないこともあり,また政直の行く末を案じていたこともあり,密かに切支丹を信仰し,小さなマリア観音像を肌身離さず身に付けていた。

政直が花巻の城に来てまもなく,明助は於楽の方に呼ばれた。当時明助は,南部藩の切支丹としてすでに中心的な存在であった。岩崎の地には切支丹たちが集まり,荒地の開墾に従事しており,領民達の信望もあつかった。

 

於楽の方のもとに上がると,傍らにはまだあどけなさが残る南部政直がいた。明助が一通りのあいさつを終えると,於楽の方は懐から紫色の袱紗(ふくさ)包みを取り出し,それを静かに開いた。マリア観音像であった。

於楽の方は言った。
「明助殿にお頼みしたいことがある」
於楽の方の頼みとは洗礼を受けたいと言うことであった。しかしながら明助自身も洗礼はいまだ受けていなかったし,人々に洗礼を授けることはできなかった。そのことを告げると,於楽の方は大変落胆した様子であった。

その様子を見かねて明助は言った。
「伊達領の水沢福原の地に天主堂がございます。そこに時折神父様が来ることがあります。その折にでもこちらにおいでいただくことをお願いしておきます」
「よろしくお頼み申し上げます」
於楽の方は幾分か気持ちをとりなおしたようだった。

 

於楽の方は脇の南部政直を見ながら言った。
「もう一つ是非にお頼みしておきたいことがございます」
於楽の方は言葉を続けた。
「政直殿には,心利いたものがそばにはおりませぬ。聞けば明助殿は領民の信望も篤く,是非に政直殿のそば近くで,よき方向に導いてやってはいただけませぬか」

明助は躊躇した。
「さ,それは……。お方様もご存知の通り,この明助はデウスの教えを信じる切支丹でございます。その明助がこのような時代に,殿を良き方向にお導きすることがかないますかどうか」
「デウスの教えを信じている明助殿だからお頼みしているのじゃ。政直殿のこれからの進む道は平らかではなかろう。しかし明助殿の導きがあれば,それがどのような道であろうと安らぎが得られるかと思う」

そうかもしれないと明助は思った。南部藩内部には,これまで一族間の血なまぐさい事件が後を絶たなかった。これからもそれは続くだろう。そして政直の花巻入りは,すでにそれが始まっている事なのかも知れなかった。明助はしばし逡巡した後に答えた。
「はっ,身命にかけまして」

その年の暮れに於楽の方は病を悪化させ亡くなった。明助は於楽の方のたっての望みで,死の間際に見よう見まねの洗礼を行った。洗礼を受けた於楽の方はわずかに笑みを浮かべて息を引き取った。

 

明助は南部利直から岩崎城代として取り立てられてはいたが,利直に心から服することはできなかった。明助の力を見抜き用いてくれたのは,前の花巻城の主である北信景(きたのぶかげ)の父の北信愛(きたのぶちか)であった。

明助は奥州仕置きで領地を失った父とともに各地を浪々し,苦難の果てに北信愛に迎えられた。信愛は知勇に優れた武将であり,髷に観音像を編みこみ戦いに臨む,信仰にも篤い武将でもあった。

若い時分には南部宗家の世継として南部信直(なんぶのぶなお)をたてて,九戸政実(くのへまさざね)と争う武断的性格が強かったが,明助の知る信愛は好々爺であった。跡継ぎを失くした信愛は,甥の信景を養子とし,信景と年の近かった明助を兄弟のように遇し訓育してくれた。

そのような恩義に報いるため,明助は義兄にあたる和賀忠親(わがただちか)が,花巻城を襲撃した折にも,圧倒的無勢の花巻城に十人の家臣を引き連れ入城し,老将信愛の指揮のもと和賀勢を撃退した。

その信愛の後を継いだ信景が,南部利直の浅はかな酒席での戯れで,大阪城に出奔してしまったのである。

北信景は花巻城を継ぎ,知勇兼ね備えた武将振りを発揮していた。また鹿角(かづの)の白根に金山を発見し,南部藩に莫大な利益をもたらしてもいた。利直の覚えも目出度く,家中の誰にも,信景の前途は洋々たるものに思えた。

ところが,慶長十七年(1612年)これが突然暗転した。信景には十歳になる十蔵という嫡子がいたが,これが同じ年頃の子供の中では剣の腕が立つと評判であった。

南部利直は酒席での戯れから,この十蔵に太刀を与え,罪人を切るように命じた。ところがこの十蔵があろうことか返り討ちに合い死亡してしまった。これに激怒した信景は剃髪し城への出仕を取りやめてしまった。

これに対して利直は謹慎を命じたが,信景は花巻城から金銀を持ち出し,大阪城に出奔してしまった。明助にとっては,信景に対して慰める言葉も見つからないうちのあっという間のできごとだった。

 

元和元年(1615年)大阪の陣において,大阪城から射られた矢の中に,「南部十左衛門信景」の銘の入った矢が見つかった。このことで利直は徳川秀忠に詰問され,徳川への忠節を疑われ強く叱責された。

大阪城落城後,北信景の消息はわからなかったが,その年の十月,伊勢で捕縛され盛岡に送られてくると言う話が岩崎の明助のもとに伝えられた。

明助はすぐさま盛岡の懇意の重役に使いを送り,助命の嘆願にあたったが全く無駄だった。返書には,南部利直の怒りはすさまじいもので,助命を言い出すことさえはばかられる様子であることが仔細に記されていた。
「馬鹿な!!」
こみ上げる怒りの中で明助はつぶやいた。

誰に向けた言葉でもなかった。この世の不条理への呪いの言葉であった。明助は奥の間にこもり祈りを捧げた。祈りは友である信景の安らぎと,呪いの言葉を吐く自分の贖罪であった。

 

その月の遅くに,花巻の町に遠丸籠(とおまるかご)に乗せられた北信景が入った。明助は岩崎にかくまっていた信景の室の於通の方を、下女に姿をやつさせ同道し信景のもとに赴いた。幸いに警護のものは明助の見知ったもので,信景が大阪城に入った理由に同情しているらしく,明助らを信景に引き合わせてくれた。

信景は厳重に竹で組まれた矢来(やごろ)の中で瞑想していた。縄目は解かれており,扱いは比較的丁寧に扱われているようだった。ろうそくの灯りに浮かび上がったその面差しには猛々しいものがあった。明助は言葉がつまった。於通の方は後ろで嗚咽をこらえていた。

信景が目を開きこちらを向いた。明助はやっとの思いで口を開いた。
「どうだ」
「おう」
なんと間の抜けた受け答えか。明助は自分に腹が立った。於通の方は嗚咽をこらえながら持参した蕎麦(そば)がきを整え信景に差し出した。その白い手を信景はとり,指を絡ませた。言葉はなかった。

 

明助は警護の者に,北信景の髷を整えてやりたい旨を頼んだ。警護の者は聞こえぬ振りをしながら向こうをむいたまま小さく頷いた。於通の方が,持参した小さな包みを広げた。観音像であった。

明助が言った。
「信愛殿の観音像じゃ」
於通の方は信景の後ろに立ち,髪をすき上げ髷を整えた。最後に小さな観音像を丹念に髷の中に結いこんだ。
「盛岡がお主の最後の戦じゃのう」
於通の方は髷の観音像に手を合わせていた。暗い室内に於通の方の嗚咽が小さく長く尾をひいた。警護の侍がこちらを向き,明助たちと目を合わせないようにして,黙って頭を下げた。

翌日早朝,仰々しく利直への反逆の罪状を書き連ねた罪状札を先頭に,遠丸籠に乗せられた信景は発っていった。沿道には多くの花巻の領民が手を合わせながら見送った。領民の小さな囁きは,南部利直への非難の声と,北信愛から信景の時代の治世への感謝だった。

その後,盛岡から伝え聞く話では,北信景は,手足の指を一本ずつ切り落とされながらも,躊躇する処刑人を励ましながら,最後は利直の矢で射殺されたということだった。

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