2007/04/25取材 青森県平内町

 

歴史散策⇒藩境塚

弘前から約90Kmの道程を一気に野辺地に向かった。長距離を走るのは撮影の出来ない夜と普通は決めているのだが、今回は仕方がない。途中気になるところもあるのだが全てスルー。国道7号線を走り青森市に入った。

青森市はかなり以前に仕事で滞在したことがあり、懐かしいところもあるのだが、心を鬼にして?スルー。車から見る限りだが、かつては演歌の「津軽海峡冬景色」がよく似合う、活気はあるが何故かさびしい感じの町だったが、なにやら昔と違ってかなり小奇麗な町になっている。

国道4号線に入り、陸奥湾が左手に見え始めると浅虫温泉、陸奥湾は春の日差しの中でうらうらと光る。平内町に入る。目的の藩境塚は平内町と野辺地町の境にあるはずだ。注意して走ったつもりだったが見落としたようだ、国道から旧道に入り、馬門の集落に入った。まずは馬門番所を最初に探し始めた。

地元のばあちゃんに、「うまもん」番所跡と尋ねたら、「まかど」と呼ぶということを教えてはいただいたが(地名のヨミは難しい)、場所はわからず、通りすがりに見つけた公民館に尋ねた。親切に教えていただき、藩境塚の場所と、戊辰戦争の折の「野辺地戦争」の史跡まで教えてもらった。

「小説・蟠龍雲に沖いる」では、明石全登の遺児赤石内記と、石田三成の遺児の石田重成の率いる津軽勢が、この番所を一気に突っ切り野辺地城に迫る設定で書いている。番所跡は住宅地の中に標柱が建つだけで、ことさら防備を固められるような地形でもないようだ。写真に収め藩境塚に向かった。

かつて街道は、現在の4号線より海沿いを通っていたらしく、藩境塚は、平内町との境の小さな駐車場から海岸線に向かって下ったところにあった。嬉しいことに、この駐車場の公衆トイレが、馬門番所風に出来ていて、その前に「高札」が復元されている。

塚の周辺は小公園として整備されており、大きな土饅頭が、津軽領域、南部領域のそれぞれに二基ずつあった。その間を、砂浜に向かって、川とも言えない様な小川が流れ、それが藩境だったという。

津軽藩と南部藩は歴史の行きがかり上犬猿の仲で、野辺地戦争の時も、津軽の藩兵はまなじりを決してここを越えたのだろう。今でもこの塚を境に、同じ青森県でも何気に文化圏が違うらしい。しかし、この日の塚は、春のやわらかい日差しの中で穏やかに見えた。