南部領内の,旧和賀・稗貫領は,はなはだ不安定であった。和賀忠親が攻めあぐねた花巻は,老将北信愛が手塩にかけた城下町だった。領民は信愛を慕っていた。

忠親が花巻城を攻めたとき,城内には城兵はわずかだったが,領内の女,子供まで立て篭もって鉄砲を撃ちかけてきたという。

しかしその後信愛の跡を継いだ北信景(きたのぶかげ)の十歳の嫡子が,藩主利直の戯れで罪人を斬ることを申し付けられ,返り討ちにあい死亡したという。これに怒った信景は出奔し大阪方に走り,大阪の陣後に捕縛され,盛岡で残虐な方法で処刑されるという事件があった。

このようなこともあり,信景の後に花巻領主として入った利直の次男の政直(まさなお)に対する花巻の領民の目は冷たかった。また遠野を中心にした旧阿曾沼(あそぬま)領も未だ定まらず,無法の地となっていた。

 

元和四年(1618年)四月十三日未明,南部侵攻が始まった。第一軍として,留守宗利(るすむねとし)の軍四千五百は既に藩境を越えていた。北のほうからしばらくの間遠雷のような鉄砲の音が響いていた。宗直は静かに命じた。

「花巻城へ」

それぞれの部隊に次々に下知が伝えられる。

「進めー」

「前へー」

白石軍の精鋭を中心に,宗直の第二軍は騎馬槍隊三百,足軽鉄砲隊ニ百,槍隊六百,弓隊六百,雑兵三千六百,計五千三百で,伊達忠宗(だてただむね)の第三軍七千ニ百と合わせて一万ニ千五百で花巻城を一気に落とすことが目的であった。

宗直はこのとき四十一歳になっていた。かつて。忠親を助け戦ったときは,槍を繰り出し,矢を放つことで一杯だった。しかしこの戦では,繰り出した槍を,放った矢を収めることも考えながら戦うことを政宗から求められていた。これまでにはない戦だった。

 

これまでの三年の間,宗直は様々に手を打ってきた。藩境近くの南部領に柏山明助(かしやまあきすけ)と言うものがいた。葛西の旧臣で,葛西氏が滅んだ後に南部利直に仕え,忠親が篭った岩崎城の戦いに功があった。

その功もあり,岩崎城の城代となっていた。情に厚い勇将であった。この明助の妹が和賀忠親の室でもあったことから宗直とは面識もあった。

宗直は政宗にも隠し,明助の協力を得て忠親の生まれたばかりの嫡子を一関から山深くに入った流矢(ながれや)という山間地に匿った。すでに十六歳になっており,この戦にも加わっていた。

この柏山明助は切支丹で,岩崎の地には迫害を逃れて切支丹が多く集まっていた。この当時,すでに切支丹への圧迫は強くなっており,切支丹に比較的寛容な伊達藩とは違い,南部藩は幕府からの強い圧力により,切支丹への締め付けは日増しに厳しくなっていた。この柏山明助も棄教を迫られていた。この明助に宗直は後藤寿庵(ごとうじゅあん)を通して接触し,それなりの感触を得ていた。

 

気仙道,遠野道方面は,花巻の攻略が成功すれば,茂庭良元(もにわよしもと)の第四軍が容易に押さえることができるだろう。花巻以南の旧和賀・稗貫領は伊達に対して兵を向けることはないだろうと考えていた。そう考えるだけの手は打ってきた。

問題は第一軍が郡山城を攻略し,盛岡本城からの南部利直の軍を阻むことができるかどうか,また北から同時に侵攻するはずの津軽信牧(つがるのぶひら)の動向であった。

 

第二軍の先端が花巻の城に到達したのは,昼前であった。宗直の軍は大手門から東に陣を敷き,遅れて着いた伊達忠宗の第三軍は,東の円城寺(えんじょうじ)口から北に陣を敷いた。また城のそれぞれの出入り口には部隊を配し厳重に固めた。

城内には南部政直を守将として約ニ千の兵が篭っているはずだった。大きな城だった。大手口からは奥に三重の堀が構えてあり,堅固な造りではあったが,ニ千の兵を城内くまなく配するには,いささか広すぎる城でもあった。

城の大手口南側と奥州街道のある東側は軍を動かすに十分な広さではあるが,西側には複雑な地形の鬱蒼とした森があり,北側は,大きな湿地があり,大勢の軍兵を動かすことは困難であった。

取りあえずその日は郡山城方面へ物見を出し,城の周辺の状況を確認した。城方は静まり返っており,時折数本の矢玉が降るくらいの物だった。

夕方になり,かがり火を多く焚かせ夜襲に備える下知を出した。夕刻,かがり火の明るさが増してきた時分,第一軍の留守宗利からの使いが来た。石鳥谷(いしどりや)で郡山勢を破り、明日には城を落とせるだろうとの知らせだった。

 

さて,どうしたものか,宗直は考えていた。この城を落とす自信はあった。またそれなりの準備もしていた。しかし,敵味方の損害を出来るだけ出さないで落とさなければならなかった。

一昨日の軍議で,そのことは政宗からの直々の言葉として伝えられている。それだけ今回の戦はこれまでと違った並々ならぬ戦であった。

この城の守将の南部政直は,南部利直の次男で,部下の将兵達からも人望は篤かった。しかし庶腹であったために,利直の嫡子は三男の重直と決まっていた。

政直は密かに切支丹の洗礼を受けていた。南部藩は花巻を領していた北信景が大阪方に付いたことなどで,徳川幕府から謹慎の処分を受けていた。

切支丹禁教令が出るとの噂もあるなか,切支丹の南部政直の存在は厄介な問題になりつつあった。それらのことで,利直と政直の仲はギクシャクしたものになっていた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です