幾日かして,政宗の命を受けて茂庭綱元(もにわつなもと)が水沢の城に来て,宗直は城から出ることを禁じられた。忠親は宗直を頼って落ちてくる途中に,伊達勢により捕らえられたと言うことだった。

宗直は綱元に無理を言い,捕らえられた忠親に会った。忠親は伊達の軍兵によって厳重に固められた寺の本堂にいた。宗直よりも一見年少のように見えた忠親だったが,この戦でいくつも年を重ねたように見えた。

それでも人のよい笑みを浮かべて宗直を向かえ言った。

「この度は格段にお世話になりました」

自分の置かれている立場を十分に承知しているらしかった。宗直には言うべき言葉がなかった。

これまでは年少の宗直が,むしろ年長者のように,天下の情勢などを話し,その話一つ々に笑みを浮かべながらも真剣に聞き入っていることが多かった忠親だった。しかしこの日の忠親は,世の無常を経験した阿闍梨(あじゃり)のような風格を持っているように感じられた。

寺の庭には遅咲きの桜の貧弱な木が一本境内に花びらを落としていた。この日から三ヶ月ほど後に,忠親は宮城野の大銀杏の近くで自刃したと聞いた。

 

その後宗直は,登米の寺池城に減封の上移された。登米の地は旧葛西の本拠地で,人心は伊達から離れていた。いつ一揆が起きてもおかしくはなかった。

無理もなかった。葛西の一族は,伊達政宗によって佐沼(さぬま)城でなで斬りにされていた。その恨みは深いものがあった。それは言葉や軍兵によって押さえられるものではないことをすでに宗直は知っていた。

世は関が原の戦も終わり,天下は徳川のもとで収まったかのようであった。その中で伊達藩は如何に身を立てていくべきかを呻吟しているようであった。しかし宗直にはそれらのことにもう興味はなかった。

 

宗直には,恨みの地の登米を豊穣の地に変えることが一大関心事であり,それに日夜腐心した。それが阿闍梨のような忠親の最後の姿に応えるものに思えた。

宗直は登米の地にあるときはその領内を歩き回り,人々の話を聞きまわった。そして人々に大きな恵みとともに大きな災いをもたらしている北上川の改修を始めた。

宗直は北上川の流路を固定するために,土手を築き,戦乱で流出した葛西の領民を呼び戻した。登米の地は次第に伊達藩内でも有数の豊穣の地に生まれ変わっていった。

 

元和二年(1616年)宗直は三十八歳になっていた。前年には大阪の陣があった。宗直の軍が伊達軍の精鋭であることに変わりはなかった。手柄もほどほどには立てた。

この年の五月,政宗が十数騎の供回りだけで,何の前触れもなく寺池城を訪れた。その夜,宗直は心尽くしの川魚の膳を政宗のために供した。政宗は人払いを命じた。

ひとしきり酒を酌み交わした後政宗が言った。

「大阪の陣の働き見事であった。そちにこの地に一万五千石を与える」

宗直は短く

「はっ」

と答えた。特に喜ばしいこととは思わなかった。

この様子を政宗はじっと見ていたが,話をつないだ。

「そちの義父にはいつも叱られておった」

義父の宗実は白石の精鋭部隊を率いて摺上原(すりあげはら)の戦いにも抜群の戦功を上げたと聞いている。小手森(こてもり)城のなで斬りにも関わっていた。伊達の戦国大名としての荒々しい草創期に大きく関与していた。

「そちにもここ十年ほど,いつも叱られているように思っておった」

 

この宗直よりも十歳ほど年長の政宗の言葉に宗直は,えっ,と思った。目を上げた。そこには宗直の思っていた政宗とは別の姿があった。

「そちは正しいことは正しいと言いたいのであろうが、わしはそれだけでは済まぬ」

そこにあるのは政宗の孤独な姿だった。

「登米はおぬしの領地だが,伊達はわしのものであってわしのものではない」

政宗は宗直に今おかれている伊達藩の状況を話し始めた。もちろんそれらのことを宗直も知らないわけではなかった。

政宗は常には多くを語らなかった。複雑な状況に対処するとき,政宗はなぞめいた言葉を発するのが常であった。重役達はそれらの謎を考え,政宗の真意を推量し動いていた。

和賀忠親のときもそうであった。そのようにして伊達は数々の困難を乗り越えてきたのだろう。それは分かっていた。しかし宗直にはわずらわしかった。それが今,宗直の前の政宗は真正面から話していた。

政宗のこれまでの苦悩が痛いほどにわかった。宗直は,政宗の言葉を途中で引き取った。

「この宗直も伊達の重役の端につらなるもの。伊達の置かれている立場はわかっているつもりでござる。お館は,この宗直に何をお望みじゃ」

「南部攻めじゃ」

宗直は短く答えた。

「承知」

翌日朝,政宗は常の尊大な神のごとくの政宗に戻っていた。

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