白石宗直(しろいしむねなお)は,南部攻めの第二軍として,花巻城の攻略を命じられていた。花巻一円の地は宗直にとって因縁の地と言えた。

慶長五年(1600年),政宗の命により和賀忠親(わがただちか)の蜂起を助け,南部勢と戦った地であった。その当時宗直は二十二歳,当時の宗直は白石氏を継ぎ水沢の地にあり,各地の戦での活躍などで,伊達藩の中でも抜きんでた評価を得ていた。

宗直は忙しい戦の合間でも,領内の治政にも心を砕いており,そのような中で和賀の旧領から南部の手を逃れ,伊達領に隠れ住んでいた和賀一族の世話もしていた。もちろんこれは,南部領に対して野心を持つ政宗の意向でもあった。

 

宗直と和賀忠親は,その年が近いせいもあり,立場を超えた親交があった。義父宗実(むねざね)は生前,ときおり

「忠親殿とはほどほどにしておけ」

と言っていたが,宗直はその言葉を深く考えたことはなかった。

忠親は宗直よりも三歳年長であったが,名族の嫡流らしい人の良さがあり,各地を転戦し中央の情勢にも明るい宗直の許をよく訪れていた。

宗直もそれに応え,忠親のもとを訪れ,ともに語り合うことも多かった。それ故か,かつての和賀・稗貫(ひえぬき)の一族が奥州仕置きによって伊達政宗と蒲生氏郷(がもううじさと)の軍に攻められたことなどは,過去の話になりつつあった。

和賀の民の宗直を見る目はおおむね好意的だった。宗直も南部領との藩境に近い水沢の地域の安定は,伊達の安定にもつながっているとの自負を持っていた。

 

慶長五年(1600年)九月には,関が原の戦いが勃発し,宗直は上杉の出城の白石城の攻略戦などで上杉勢と戦っていた。この戦いが山を越すとすぐに,宗直は和賀忠親の挙兵に対して支援することを政宗から命じられた。忠親は以前から和賀家の再興を静かに語っており,その友への救援は望むところであった。しかし

「伊達が表に出ることは一切ならぬ」

ということであった。

関が原の戦いが,予想外にはやく終わってしまった状況でのこの言葉の持つ意味が,宗直にはわからないではなかった。しかし,この言葉の中に含まれる政治的な冷徹さと残酷さを,当時の宗直にはまだ十分に理解することはできなかった。友の忠親の挙兵を助けることが,和賀の再興につながり,それが伊達のためにもなるということが宗直の心を躍らせた。

 

宗直は白石から水沢へ急ぎ戻り忠親に会った。忠親はすでに和賀の一族を中心に一千余の兵を集めていた。子供のように高揚感で頬を赤く染めていた。しかし,伊達家中で諸所の戦に出ていた宗直にとって,三歳年長のはずの忠親のこの様子は,少し不安でもあった。

すぐさま軍議を開いた。その結果,稗貫一族の大迫又三郎(おおはさままたさぶろう)兄弟を中心に,伊達家中の藤田宗親(ふじたむねちか)の軍を合わせた本隊ニ千は,大迫城を落し花巻城の軍勢をひきつけ,その隙に乗じて忠親の軍一千は,花巻城を落とす手はずが整えられた。宗直の軍一千は藩境に出て,万一のときの兵の収容と藩境の防御を行うことになった。

 

大迫又三郎と藤田宗親の本隊が先に藩境を越え,次いで和賀忠親の兵一千が花巻城に向かって進発した。思惑通り,花巻城の軍の多くは大迫城の救援に向かった後であり守りは手薄であった。

しかし七十八歳の南部の老将,北信愛(きたのぶちか)の頑強な抵抗にあい,二の丸,三の丸を奪いながら本丸を落とせないでいるとの知らせが入った。

宗直は,しまった,と思った。花巻の北信愛は歴戦の名将であり,戦経験の無い和賀忠親の敵ではなかったのかもしれない。直ちに宗直は五百の兵を率いて花巻に向かった。しかし物見の兵から次々と知らせが入ってきた。

「大迫に向かった花巻勢が花巻城へ引き返しつつあり」

「盛岡から救援の騎馬軍が入る」

南部方の反応は予想以上に早かった。

宗直は

「これまでか」

と歯軋りした。まもなく忠親から伝令が入った。

「忠親殿,岩崎城へ向けて敗走中」

宗直は南部領からの撤退を下知して,伊達領に戻り,藤田宗親の軍も引き上げた。

 

その後,大迫城は奪い返され,大迫又三郎ら主だった者は捕らえられ,稗貫勢は雲散霧消してしまった。

忠親ら和賀勢は藩境に近い岩崎城に篭った。岩崎城は堅城であり,南部軍に激しく攻め立てられたが良く持ちこたえていた。その年も十一月に入り,小雪が舞い落ち,南部軍は一旦引き上げていった。

この冬の間に,宗直は忠親を伊達領に引き上げさせようと動いたが,政宗はそれを許さなかった。伊達と南部の争いの中で,関が原の戦いの早過ぎる収束は政宗にとっても意外だったのだろう。関が原の戦いの混乱のなかで,南部領への侵攻は政宗の完全な読み違いで終わった。

この状況は伊達にとってかなり不利なものだった。和賀忠親は捨て駒にされたのだ。宗直にも無論その状況は分かっていた。しかし素直に受け入れることはできなかった。密かに岩崎城に兵を入れた。

 

翌年三月,南部利直は約四千五百の兵で岩崎の城を囲んだ。城を守るのは忠親以下ニ千の兵であった。南部の猛攻によく耐えていた。宗直は悩んだ末に密かに救援の軍を向けることにした。

岩崎城の軍と示し合わせ合流し,南部の軍に痛打を浴びせあわよくば撃退し,悪くても忠親をはじめとする和賀衆を伊達領に撤退させる考えだった。

宗直の軍約一千は未明に行動を開始した。しかしこれは南部の間者により敵方に筒抜けになっており,途中伏兵にあい大乱戦になってしまった。

宗直の陣まで南部の軍は押し寄せ,宗直自身も槍を取り十数騎を打ち倒した。しかし目的を達することができないままに引き上げざるを得なかった。大敗であった。万事休すであった。大風の吹く日に岩崎城は火攻めにあい,劫火の中落城した。

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