松島は、その風景を眺め、島々の美しさに見とれていると、この地が古くからの霊場であることを忘れがちだ。遊覧船からの島々の眺めからだけでは見えない歴史がここかしこにある。

JR線の松島海岸駅の正面を、松島水族館の前を通りそのまま進むと、雄島に行き着く。この島に一歩足を踏み入れれば、この地が古くからの霊場であることは一目瞭然だ。

伊達家と松島とのつながりは、伊達政宗が関ヶ原の戦いが終わった後、1600年に仙台に治府を定め、仙台城の造営と併せて1604年に瑞厳寺の造営を行ったことに始まる。用材を紀州熊野山中から伐り出し、海上を筏に組んで運び、名工130名を招き寄せて造営されたと伝えられる。

この瑞厳寺は、政宗が徳川とことを構え敗れた場合の、詰めの城であったと言われたりしているが、それは定かではないが、この瑞厳寺の造営には、政宗は特段の思い入れがあったようで、政宗自身が縄張りを行ったとも言われている。

その後、この瑞厳寺を中心に、伊達光宗の廟の他に、政宗正室の陽徳院愛姫や長女の五郎八姫の廟がおかれ、松島は、伊達家の霊場として保護されるようになった。

伊達光宗は、1627年、伊達忠宗と、池田輝政の娘で徳川秀忠の養女となっていた振姫との間に生まれた。振姫が忠宗に嫁いだ時期は、1615年の大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡し、徳川の天下とはなっていたが、まだまだ流動的で、1616年、徳川家康が亡くなり、伊達政宗の長女五郎八姫の娘婿である松平忠輝が改易された折には、政宗が謀反を起こすといった噂が流れ、幕府や西国大名たちは、出陣の準備をしたほどだった。

伊達政宗に、天下への野望はあったのかと考えるとき、それを直接的に証明するものは当然のことながらなにもないが、大阪の陣の成り行き、将軍家相続を巡る内紛次第では動き出すことは十分にあったと思われる。

山城である仙台城の構えは、広瀬川と龍の口渓谷の断崖に守られた天然の要害で、さらに高石垣を配した堅固なつくりである。近世においては治世の城が多い中で、これはあきらかに戦いを意識した城と思われる。

広瀬川を外堀とし、北の大手口は急斜面と高石垣が守り、東は広瀬川の断崖、南は龍の口渓谷の断崖絶壁と、自然の地形をたくみに生かしている。ビスカイノをして「日本の最も勝れ、また最も堅固なるものの一つ」と言わしめるほど、同時代に比類ない堅城だった。やはり政宗は、天下への野望をもち、この城を造ったものと考えられる。

しかし、慎重に機会をうかがう中で、天下泰平を願う時代の流れの中で、取りあえずの伊達家安泰のための策を講じながら、結果として徳川の天下にのみ込まれて行ったようだ。

政宗の謀反も噂された、長女五郎八姫の娘婿、松平忠輝の改易の翌年には、二代将軍徳川秀忠は、池田輝政の娘、振姫を養女として、政宗の嫡子の忠宗との婚礼を進める。これは政宗にとっても、伊達家安泰のための取りあえずの策としては歓迎するものだったと思う。

この3年後の1620年、政宗の命により、1613年、石巻の月の浦を出港しヨーロッパに渡っていた支倉常長が帰ってきた。しかしすでに、秀忠のもとで、切支丹禁令は徹底されており、常長の帰国したこの年には、仙台藩でもポルトガルの宣教師他8名が、仙台城の大橋のたもとの水牢で殉教した。

しかし、それでも仙台藩の切支丹への対応はまだまだ寛容なもので、支倉常長はもちろん、伊達家中にはキリスト教へ帰依しているものが多く、政宗の正室の愛姫や、長女の五郎八姫、また伊達光宗も切支丹だったのではないかとも言われている。政宗が、キリスト教の教えそのものに関心があったとは思えないが、灌漑技術や鉱山技術、造船技術などには強い関心を持っていたものと思う。

また何よりも、切支丹の持つ製鉄技術は、政宗の野望にとっても重要なものであり、岩手県藤沢町の大籠や、宮城県東和町の狼河原では、多くの切支丹が製鉄に携わっていた。

このような時期に、伊達藩にとっても、また恐らくは政宗の野望にとっても、衝撃的な事態が起きた。山形最上藩の改易だ。最上義光はすでに1614年に没しており、その跡は次男の最上家親が継いでいたが、長男の義康が暗殺され、また三男の清水義親も大阪の陣の際に、謀反の疑いで家親が攻め滅ぼしており内紛が続いていた。その家親も1617年には没し、その子義俊が若年で跡を継いだが、結局、その内紛を理由に改易された。

山形最上藩は、五十七万石の大藩であり、外様とはいえ、その藩祖最上義光は、関ヶ原の戦いの折にはいち早く徳川家康に付き、上杉勢と果敢に戦い、家康の信も篤いものがあった。また二代目の最上家親も早くから徳川秀忠の近くに仕え、伊達家以上に徳川家とは近い関係だった。それが改易されたのだ。

その後、出羽は徳川の親藩、普代、天領で分割され、またその翌年には、徳川家光が三代将軍となった。恐らくは、政宗の天下への野望は、この時期についえたものと思う。後に、1628年、政宗が徳川秀忠を仙台藩江戸屋敷に招待して供応したおり、政宗自らが秀忠の前に膳を運んだ。そのとき秀忠の側近が、政宗に毒見を求めたという。そのとき政宗は、「10年前なら将軍を殺すこともあったかもしれないが、その時でも、毒などは使わず、馬で乗り寄せ一槍交えて戦おうとしただろう」と激怒したという。

しかしながら、この同じ1628年に、政宗は隠居所として、一国一城令の中、若林城を築いている。この城は、幕府への届けでは「屋敷」となっていたが、天守閣こそないが、水堀と高い土塁に囲まれた、堂々たる平城だった。この城こそ、山形最上藩の改易に対する、政宗の「おめおめ改易はされない」との強い意思表示だったろうと思う。これに対して幕府は政宗をとがめることはなく、1630年に3歳で世子となった伊達光宗に対し、叔父にあたる徳川家光は「光」の字を与えた。

家光の時代の幕府は、すでに確固としたものとなり、その体制の中で、次々と外様大名を中心に改易が進められる武断政治の時代だった。1632年には熊本加藤藩、1634年には松山蒲生藩が改易された。政宗は、なくなる前に、仙台城は山城で平和な世の治世には適さぬとして、自分の死後は平城へ移ることを奨め、また若林城の死後の廃棄を命じ、また徳川家と良好な関係を築くことを言い残した。そして、奥羽の英雄伊達政宗は1636年、波乱の人生に幕を閉じた。

伊達忠宗は政宗の遺言を守り、若林城を廃棄し、仙台城の山麓に二の丸を築造し、ここを治世の場にした。徳川家とは良好な関係を保ちながら、『守成の名君』と評されるほどに、仙台藩の地位と基盤固めに務めた。忠宗は徳川との融和策をとっていたが、外様の大藩として気が抜けない日々だったろうと推測できる。

しかし、伊達政宗の死後、将軍家光の思いとは別に、幕府は強大な経済力と軍事力を有する伊達藩の力をそごうとする動きに出てくる。1620年にすでに行われた切支丹の、再度の徹底した取締りを求めてきた。伊達藩は、その切支丹が持つ製鉄技術を温存するために、岩手県藤沢町の大籠村や、宮城県東和町の狼河原村の製鉄地域の切支丹には見てみぬふりをしていたようだ。しかし、幕府の要求は厳しく、政宗亡き後の仙台藩は、それに抗うことはできなかった。1639年から翌年にかけて、徹底した切支丹の取締りが行われ、狼河原村や隣の大篭村で300人以上の殉教者が出た。

それでも伊達藩は、製鉄を保護する目的で、製鉄の中心的な存在の「どう屋八人衆」を保護し製鉄を続けさせたが、さらなる幕府の要求により切支丹は捕らえられ、結局仙台藩の組織的な製鉄業は壊滅した。

政宗没後も、外様大名の改易は続き、1640年には讃岐高松藩が、1642年には越後村上藩が、1643年には会津加藤藩が改易された。そして1645年に、伊達光宗が19歳の若さで急死した。

光宗は、仙台藩二代藩主の忠宗と、徳川秀忠養女振姫との間にその次男として江戸で生まれたが、兄の虎千代は、光宗が3歳のときに亡くなったため、早くから伊達家の嫡男として育てられた。光宗は、将軍家光の甥にあたり、また幼少の頃より文武に優れ、性格は剛毅で、伊達政宗の再来と言われ、仙台藩の三代藩主として期待されていた。

この光宗の急死には、当初から毒殺説があり、外様大名から名君が出ることを幕府が警戒し恐れ、毒殺されたという説が強くあるが、もちろんそれが真実かどうかは確かめようもない。忠宗と振姫の悲しみはいかばかり深かったのか、忠宗は、光宗が江戸で納涼の館として使用していた建物を海路で運び、この地に移築し大悲亭と名付けた。また、その死の翌年、光宗の廟としてこの三慧殿を建立した。

この三慧殿には、忠宗と振姫の悲しみはもちろん、その憤りもうかがえる気がする。この三慧殿のつくりは斬新であり、ある意味では当時の幕府に対して挑戦的とも見え、そこに忠宗の思いがあるのではないかと思われる。霊屋には光宗の厨子が置かれ、その中には白馬に跨る衣冠東帯の光宗の像が祀られている。様式は桃山様式だが、厨子には金色鮮かに、支倉常長がローマより持ち帰った日本最古の洋バラの絵が、また随所に切支丹に通じるユリを描いている。時代が完全に鎖国に入っていたこの時期、また切支丹禁令がくまなく行き渡ったこの時代に、これは忠宗と振姫の幕府に対する怒りの表れではないかと思う。幕府に対しては、伊達家の霊廟と申し立てその扉を開けることは無かったと云われており、その為、3世紀半もの間公開されずに現代に至ったものだ。

その後、忠宗は、光宗の死後の4年目の1649年、幕府に願い出て、徳川家康を祀る仙台東照宮の造営を始め、東照宮は1654年に完成した。これが光宗の死を受けての、仙台藩主としての悲憤の選択だったのだろう。

その後、忠宗は、側室である櫛笥氏の子、伊達綱宗を後継とした。しかし櫛笥氏はその姉が後西天皇の生母であったため、天皇と綱宗は従兄弟の関係になり、重臣の中には「幕府から睨まれる」と危惧していた者もいたという。事実その後忠宗のあとを継いだ綱宗は、21歳の若さで強制的に隠居させられ、これが寛文事件へとつながっていく。

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