第二次世界大戦で、日本軍はビルマ国境に近いインドにおける中国への支援のためのイギリスの基地、インパールを攻撃すべく作戦を展開した。

インパールには三方面からの攻撃が行われ、アラカン山脈を越えてのルートを担ったのが第31師団烈兵団で、その師団長は庄内町出身の佐藤幸徳中将だった。しかしこの作戦は当初より無謀さが指摘されており、佐藤は作戦前に、第15軍の会議にて補給の困難を主張。第15軍司令部に作戦中の補給量の確約を求めた。

同師団は、20日分の食料と重装備の兵器を担い、峻険な山岳地帯を踏破、インパールの前哨基地であるコヒマを攻略したが、航空機と大戦車部隊に援護されたイギリス軍の反撃に遭い、雨季のジャングルでの戦闘が二ヶ月も続いた。しかし作戦開始後、食料、弾薬は補給されず、第15軍司令部は、「これから送るから進撃せよ」などと偽りの電報を送り続けただけだった。この間、傷病兵も2千人を超え、雨のジャングルでの赤痢やマラリヤ等の病気との戦いも極限に達した。

佐藤師団長はこのままでは全滅は不可避と判断し、「善戦敢闘60日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と打電し、その責任を一身に負い、食料、弾薬の補給できる地点への撤退を命じた。しかし、雨季のこの撤退行動は悲惨を極め、そのルートは戦後「白骨街道」と呼ばれた。

この撤退行動の際に、ビルマ方面軍にも、「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇したりとて、軍規を楯にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司の猛省を促さんとする決意なり」「久野村参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり」「司令部の最高首脳者の心理状態については、すみやかに医学的断定をくだすべき時機なりと思考す」などと激しい司令部批判の電報を送った。

これは、師団長と言う陸軍の要職にある者が上官の命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件であった。この作戦は中止され、佐藤は師団長を解任され、作戦に参加する3師団すべての司令官が更迭される異常な事態になった。もとより佐藤は死刑を覚悟しており、軍法会議で第15軍司令部の作戦指導を糾弾するつもりであったという。

しかし、第15軍司令官牟田口は、天皇が任免権を持つ師団長を独断で解任し、佐藤中将は軍法会議で作戦失敗の非を訴えようとしていたが結局不起訴処分となり、「精神病」扱いでジャワ島に送られた。事実上の軟禁だった。これは、死刑を決意した佐藤により、撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかにされると共に、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中枢に及ぶことを回避するためであったと考えられる。また統帥権を持つ天皇への責任にまで及ぶことを恐れた軍部の措置であったと推測される。

現場の司令官が師団長を解任する権限はなく、牟田口による解任は統帥権を犯す行為であった。佐藤は、後に「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」という言葉を残している。

戦後、自分達への責任追及を恐れた陸軍の中枢だった者たちにより、長い間インパール作戦の失敗は戦意の低い佐藤ら三人の師団長が共謀して招いたものと佐藤に非難が浴びせられた。しかし佐藤中将の抗命により、1万数千人の兵士の命が救われたことは紛れも無い事実だった。その生き残りの兵士の有志により、昭和60年(1985)、この追慕碑が建立された。またインパール作戦での部下の多くが四国出身者であったこともあり、同様の碑が香川県高松市にも建立されている。

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