2007/02/11取材 岩手県一関市

 

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歴史散策⇒一関城跡

一関城は以前にも訪れたが、そのときは不勉強で、釣山公園だけで帰ってきてしまった。その後、釣山公園は古代から中世の城跡で、近世の一関城は山麓にあったということで、その名残を探すことが目的だった。

近世の一関城は、治世の城で、その北側山麓の平地に築かれた平城で、その防備はさほど固いものとはいえないようだが、いざというときは、釣山を詰の城と考えていたのだろう。言ってみれば中世の「根小屋式城館」を近世に持ち込んだものだろう。

近世一関城の城域は、現在の一関市のほぼ中心部にあたる。遺構らしい物はないだろうと思いつつ、城域と思われる場所を歩き回った。それでも太鼓楼のあとに説明板があるはずなので、まずはそれを探した。

福祉センターの駐車場に車を停めて、「城内」という地名からこの辺りだろうと目星をつけて、周りを一周した。何のことはない福祉センターの北側正面入り口にそれはあった。

もちろん遺構らしい物はなく、説明板と太鼓楼の復元レプリカがあった。一関城に「過ぎたるものの一つ」といわれていたと言い、一関城の名物だったらしい。近くに近世一関城の復元図があった。それによると、この福祉センターと、西隣の裁判所が城の中心で、駅前から真っ直ぐこの地を通っている国道284号線が水堀だったことになる。

さらに裁判所の周りも回ってみると、裁判所の北側に、土塁状の地形を見つけた。先ほどの説明板からすると、恐らくは本丸部の築地塀の跡だろうと思われた。取りあえず見つけた遺構らしき物はこれだけだった。

市街地のど真ん中の城跡としては致し方ないことだろうが、あの太鼓楼がいつの日か復元されれば、現代においても一関の「名物」になるのは間違いないだろう。

その後、釣山に向かった。釣山は坂上田村麻呂が、安部貞任が、そして源頼義、義家が陣とし、古代からの奥州の「武の系譜」にふさわしい威容を持つ。山頂の千畳敷まで、幾段もの郭を備え、突き出た一つ一つの尾根にそれぞれに防御の技巧が見られる。

公園化はされているが、中世の城館の地形は出来るだけ残そうとした配慮が見られ、それはこの町の風格にもつながっているものと思われた。