2011年3月11日、みちのくを未曾有の大災害が襲った。

ラジオのニュースでは、東北地方沿岸一帯には、大津波警報が出ていた。幸いなことに、自宅は屋根の一部がくずれたりはしたが、被害は比較的軽微に見えた。

その夜、ローソクの明かりの中、ラジオからは各地の被害の状況が伝えられていた。特に「陸前高田市ほぼ壊滅」「福島第一原発原子炉冷却が不能」は、衝撃的だった。

陸前高田市には、震災の2年ほど前に訪れた。そのとき、今はない高田松原近くの道の駅に車を停めて一休みしていたとき、近くの「太鼓館」で、「氷上太鼓」を練習しているグループに出会い、取材させていただいた。

また、震災の2ヶ月ほど前には、宮古、大船渡、釜石を訪問し、1ヶ月ほど前には浪江、双葉、大熊、南相馬など福島県の浜通りも訪れていた。どの地でも、名も知らぬ善良な地域の方々にお世話になった。かろうじて連絡先を伺っていた方々に電話をしてみても、携帯電話は電源が入っておらず、固定電話は断線しているようだった。

震災の5日後には電気も復旧した。しかしそれでも、ガソリンも無い中、自転車で毎日の食料を調達する日々の中で、被災者や犠牲者のために何ができるのか、怒りにも似た感情の中で、祈りながら考えていた。

毎日、朝早くから遠くにサイレンの音が聞こえ、空を自衛隊の大型ヘリコプターが飛び交っている。震災と大津波から10日たった今も、被災地の方々は、きびしい生活を強いられているようだ。

以前、活き活きと氷上太鼓を演奏していた陸前髙田の方々はご無事なのだろうか。陸前高田市の瓦礫の市街地の写真を見て、怒りに似た感情がこみ上げてきた。とりあえず、祈ることしかできなかった。

怒りにも似た感情の中で、祈りながら氷上太鼓のデータを編集し、写真を集め、動画を作成した。

今日は3月21日、彼岸である。墓前に上げる生花も手に入らなかった。わずかな庭の花と、川岸の梅の花を手折り、墓石が折り重なるように倒れている、父の眠る墓地に出向いた。明るい春の日差しの中、かろうじて立っていた父の墓石に手を合わせると、得体の知れない感情がこみ上げてきて、しばし涙が止まらなかった。

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