2010/02/22取材

 

歴史散策⇒九戸城址

九戸城は、この「遠征」の大きな目的のうちの一つだった。小説「蟠龍雲に沖いる」では、南部一族間の、修復不可能な亀裂の要因として扱った。奥州仕置軍の6万を超える大軍を迎えてこの城に篭った九戸党の心を感じたかった。

九戸城址は北、東、西の三方を深い渓谷に囲まれた台地上に位置しており、二戸市街を南北に走る県道274号線を東に曲がり、南側からかつての城域に入った。二戸市にありながら九戸城であり、南部信直が三戸からこの地に城を移し福岡城と名を変えたが、それでも「九戸城」である。この地の人々にとっては、二戸城でもなければ、南部の福岡城でもない、九戸政実が戦った「九戸城」なのである。

県道から入るとすぐに城域であることがわかった。唯一南側に開いた城への道には当然のことながらさまざまな「仕掛け」がしてあったはずで、城跡への道の右手に見える台地上の墓地は、当然郭跡だろう。この道は切り通しで、台地下の平坦地は水堀であったろう。すぐに水堀跡の案内板があった。

二の丸への入り口がすぐに見つかった。車で入れるように道は舗装され、二の丸跡が駐車場になっており、道はそれなりに整備されていた。しかし、残っている元の地形を見るに、かなり複雑で、枡形や虎口や横矢が複雑に配置されていたように思う。

駐車場で愛車ロシナンテをとめ、はじけるように外に出た。全体を見渡すと、正面北西側に広い本丸跡が広がっており、北東側に郭跡と思われる台地がある。はやる気持ちを抑えて、まずは説明板を見て、外回りから歩き始めた。北東側に進むと供養塔があった。この城では、奥州仕置軍によって多くの者が「虐殺」されたのだ。手を合わせた。

さらに進むと、広い空堀状の両脇に台地があり、これらもまた郭跡らしい。一つ一つが独立した郭を形成し、本郭を囲んでおり、さらにその郭群の外回りは深い渓谷が囲んでいる。南部領に多く見られる複郭式の城だが、この城の堅固さは他にあまり見られないものだ。

ひとわたり歩き回り、外回りの郭跡と、空堀状地形に納得し、二の丸跡に戻った。二の郭跡からあらためて本郭跡を臨む。本郭と二の郭は、同じ台地上に広々と広がっていた。本郭と二の郭は、水堀と土塁で区画されていたようだが、ここからはさほど堅固な城には見えない。しかし、この城に篭った5千の九戸勢は果敢に戦い、6万5千の奥州仕置軍はこの城を落とすことはできなかった。この城の防御の要は、やはり三方を取り囲む渓谷なのだろう。

本郭跡に向かう。南東部と南西部を水堀が囲む。水堀はわずかに水を残し、くずれた古石垣が残っている。本郭に入ると土塁がまわっており、土塁上には小さな祠が建っている。いつの時代にかやはり供養のために祀られたものだろう。

この城址の台地上には、他の城跡にはたいていある古木大木が見当たらない。そのせいか、広々としたこの城址は、青空の下で妙に生々しい。吹きぬける風の音は、九戸の兵達のざわめきにも聞こえる。土塁の端が一段と高くなっている場所に、さほど古くはない樹木がすっくと青空へ伸びていた。

秋が深まりつつあるこの小さな盆地の中で、奥州仕置軍は兵糧の確保が難しくなり逆に追い詰められ、偽計をもってこの城を開城させる。城に入った仕置軍は、城兵や女子供を二の郭に押し込め火をかけ虐殺した。青空の下に広がるこの台地は地獄と化したのだ。この地は断じて観光地などではない、いわば霊場なのだ。