2010/04/26取材

 

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歴史散策⇒八戸根城

この日の行程は種差海岸の日の出に始まった。種差海岸は、義経の北行伝説が強く残る地だ。当然義経伝説にも強い関心を持ってはいるのだが、この日のメインはあくまでも八戸根城と九戸城で、どちらもじっくりと時間をかけたいと思っている。種差海岸の早朝の光と海の香りを楽しんで、八戸根城に向かった。

「小説・蟠龍雲に沖いる」では、夫の八戸直政亡き後に八戸根城を守った清心尼が、南部から離れ、津軽勢に対し単独でこの城に篭城する筋立てにした。この城攻めの「作戦」も地図とWeb上にあった写真で立てて書き上げたのではなはだ不安であった。

まだ早朝であったので、車の混雑もなくスムーズに根城に着いた。城跡は思った以上に広い。かなり昔、この城跡を仕事のついでに訪れたときは、荒れた野原に、朽ちた城門が一つ立っていただけだった。それが今は、その城域のかなりの部分が整備され、主殿や他の建物群が復元されている。

城域内の駐車スペースに車をとめると、西側に本丸の復元された建物群が並んでいる。しかし、ここはやはり東側の入り口から取材を始めるのが礼儀だろう。はやる気持ちを抑えて、本丸に背を向けて東側の八戸市博物館に向かった。

博物館の前には、八戸南部の祖、南部光行騎馬像があった。そして公園化された城域の入り口に、あの朽ちてかろうじて立っていた城門が修復されて立っていた。逸る心を抑えて、まずは外堀の三番堀跡を確認する。堀跡は水こそ無いが、今も広々とした姿を残していた。

恐らくは大手口だったろう東側から公園になっている城跡に入った。なだらかに波打ち主殿に続くこの城跡には、戦いの城のイメージはあまり湧かない。暖かい日差しのせいもあり、穏やかなイメージである。

小説「蟠龍雲に沖いる」では、篭城の準備を見廻る清心尼が、温かい日差しの中で日一日と緑が芽吹く城内の様子に心を惹かれる場面を書いたが、まさにその様子が眼前にある。東善寺郭跡も中館跡も、堀を配しそれなりの高所にあるが、なだらかな芝生の波と一線画するほどの荒々しさはない。中館跡に上り、そこからいよいよ堀で画された主郭に向かう。

主郭は、それなりに「城」としての体裁にはあるが、山城と比べればはるかに穏やかで、全体のイメージを損なうほどのものではない。中世館の、いかにもと思える木柵に囲まれた主郭に入った。

主郭には、かつての建物群の一部が復元されていた。主殿はまさに中世の「館」である。木造の平屋で、少し大きな農家のようなもので、まことに質素なものである。近世の天守閣などを「城」と思っている方々は物足りなさを感じるかもしれない。しかし、この館にはずっしりとした歴史の重みがある。

さらに驚いたことには、その周囲の建物群だ。主殿こそ木造のそれなりの建造物だったが、作業場や倉庫は、半地下式の掘っ立て柱の竪穴式だ。考えてみれば城とは言え、当時の一般の住居は、古代からの竪穴式住居がまだまだ多かったはずだ。

中世の城跡といえば、復元されていることは殆ど無く、山林であったりただの公園であったり、さらには全く関係のない模擬天守が建っていたりする。そのような中で、この八戸根城は、しっかりとした時代考証の上に建物群が復元されている。

盛岡城はその高石垣が見る者を圧倒する。弘前城は周到な防御の中にその美しさがあった。八戸根城は明るい日差しの中で歴史の重さをどっしりと感じさせる。

この八戸根城はなだらかな丘陵上にあり、その西端の最も高い位置に主殿はある。西端は急斜面が堀に向かって落ち込んでおり、ここだけはわずかに城砦としての面影はある。しかし、全体としてはやはり穏やかな顔を見せる城ではある。

恐らく、八戸氏は南部の惣領として、安定して強い実力を持っていたために、山城を築く必要がなかったのだろう。戦国期の山城と比べれば、その防備は固いとはいえないように思える。戦国期終盤の戦法、武器に対して、この城は対応してはいない。広々としたなだらかな丘陵上のこの城は、いわば太守としての風格を感じさせるものだ。

小説「蟠龍雲に沖いる」の中では、津軽勢と九戸勢は、三番堀の東に主力を配しこの城を囲む。この城を攻めるとすれば、やはりそうなるだろうとの思いを新たにした。史実ではこの城そのものは、過酷な運命に出会わずにその使命を終えている。小説の中でも、清心尼が篭るこの城に、過酷な結末をむかえさせたくはなかった。それで正解だったとの思いを新たにした。

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