2010/01/28取材

 

歴史散策⇒大槌城址

今回は、岩手県の三陸海岸沿いを取材することにしていた。真冬の岩手県の、内陸の冬景色にも大いに興味はあるのだが、道もろくに知らない「余所者」にはハードルが高いように感じ、雪も比較的少ないだろう海岸沿いを北に向かって走ることにした。

この日は、釜石を中心に朝早くから諸所をまわり、宮古へ向かう途中、大槌城址へ寄った。

今回の取材のメインは、戊辰戦争時の宮古湾海戦で、正直に言うと、三陸沿岸には、それ以外に歴史上で興味を引く材料はあまり持っていなかった。というよりも、知識があまりなかった。特に、個人的には本来最も興味のある中世の歴史に、大きな興味を引くものは持っていなかった。この大槌城についても、予備知識はほとんどなく、予定に入れてはいたものの、大きな期待はしてはいなかった。

城址は、この地域の公園になっているようで、小学校の脇を上っていくと、ピークに公民館があり、そこに城址の碑を見つけた。遺構は何も残っていないのかと、多少落胆しながら車を停めて辺りを確かめた。

一般的には、城址が公民館などの施設になっていることは多く、「こんなものか」と感じながらその碑を撮影し、それでも何かないものかと周りをうろうろし始めた。すると、この地より谷を隔てた北西方向に尾根が連なり、尾根上には東屋などがあり、それはあきらかに尾根上に連なる中世の山城だ。なんのことはない、この碑のある位置は、城址のほんの入り口だったのだ。

この先にはりっぱな車道が通じているのだが、どういうわけか車は進入禁止になっている。城址はかなり広大で、距離もかなりありそうだったが、このときはすでに打って変わってかなりテンションは上がっていた。城址の全体像はまだわからないが、確かめずにはおけない衝動が身内を駆け巡っていた。すぐに防寒服を着し、カメラの用意をして、靴の紐を締めなおし、尾根に向かって歩き始めた。

典型的な中世の山城のようで、海に向かって馬蹄形に尾根が突き出し、中心部に主郭が置かれていたようだ。尾根そのものを城塁とし、尾根上には階段状に郭が配されていたようだが、規模はかなり大きい。天気は上々で、気持ちはハイになっており、歩くことは気にならなかったが、冬の日の短いことだけが気になり、小走りに城址の中心に向かった。

主郭址に上ると、そこは天空の城といった様相すらあり、東西に伸びる尾根に郭を配し、さらに南に伸びる二筋の尾根の先端部にまで郭が置かれていたようだ。その尾根の先には大槌湾が広がり、かつてはここから、京、大坂まで海産物を運んだとも伝える。

三陸沿岸は、いつの頃からか歴史の流れの主軸からは取り残され、今も語られることは少ない。しかし、これだけの城を構えた一族がこの地には存在し、当然のこと、この地をめぐる激しい興亡があったはずだ。また新しい好奇心が頭をもたげ始めていた。

 

※ここから見える町は、大津波で壊滅し、多くの命が失われた。