ソテロはその後、切支丹禁令が出された江戸に戻り、切支丹狩りにより牢に入れられた。しかし、伊達政宗が徳川家康に掛け合い、イスパニアへの使節案内として母国に戻すことで牢から出された。

牡鹿呉壷で完成された洋風大船陸奥丸は、ソテロを正使とし、支倉常長を副使とし、総勢百八十人を乗せて月ノ浦を出航した。この船は、『陸奥丸』と『サンファンバウティスタ』という二つの顔を持って、切支丹禁令の敷かれた日本を出航した。

後藤寿庵にとって、ソテロとの別れは大きな転機だった。これまでは、切支丹の教えも西洋の様々な知識も、言わば研究者としての物だった。それが切支丹禁令が敷かれた中、切支丹の寿庵が、一族をなで斬りにした政宗から福原の地を給された。寿庵は、これは神が自分に実践者としての使命を与えたものと思った。

寿庵は砲術を巧みとし,伊達家中でも並ぶものがないほどだったが,寿庵にとってはどうでもよいことであった。

それよりも福原の地は,このときまだ未開の原野であり,それを開墾し各地で迫害されている切支丹たちを呼び込むことに全力を上げていた。

噂を聞いて葛西のものや切支丹たちが福原の地に集まり始めていた。堰をもうけ,用水を切り開き,西洋の技術も取り入れ,次第に耕地が広がっていった。

切支丹のパードレ達から得た西洋の知識は,荒地を切り開き,治水を行うのに大いに役に立った。集まった多くの切支丹信者たちは,自分たちの新しい天地を得たことを大いに喜び,寿庵にしたがい荒地を開拓した。

天主堂も建て,マリア堂も設けられた。ガルバリヨ神父も呼びミサもとり行われた。水沢福原の寿庵の屋敷の前の福原小路には,家臣の屋敷も立ち並び,小さいながら切支丹王国の雰囲気さえあった。

元和二年(1616年)十一月,登米(とよま)の寺池から白石宗直(しろいしむねなお)が福原の地を訪れた。表向きは寿庵が行っている河川改修の視察だった。

宗直も登米の地で北上川の改修を行っており,戦禍で流出した葛西や大崎の者達を呼び戻し,今や伊達領内でも有数の豊穣の地に変えていた。

視察を終え,その夜寿庵は宗直を取って置きのワインを出しもてなした。寿庵もかつて何回か登米の地を訪れ,北上川の改修の様子をつぶさに見て回った。宗直の登米での評判は高いものがあり寿庵は同じ年ながら尊敬の念を抱いていた。

 

宗直は珍しそうにワインを飲みながら言った。

「近々幕府は切支丹禁教令を出すらしい。やっかいなことになるかも知れぬ」

もちろん寿庵もそのことは知っていた。福原の地には各地から迫害を逃れ切支丹が流れ込んでいた。

切支丹の岡本大八(おかもとだいはち)なるものが起こした収賄事件や大阪の陣以来,他藩での切支丹への迫害は一層ひどくなっているようだった。また,この年には政宗の娘婿で切支丹の松平忠輝(まつだいらただてる)の改易騒ぎがあり,切支丹絡みで政宗の謀反の噂が一時期世情を騒然とさせた。

白石宗直は言った。

「今,お館様は難しい立場におられる」

政宗はイスパニアに支倉常長(はせくらつねなが)を送り,それも近く戻ることになっている。また松平忠輝の室ですでに伊達藩に戻ってきている政宗の息女の五郎八(いろは)姫も切支丹で,頑として棄教を拒んでいた。

 

この五郎八姫は,伊達領の切支丹達の間では希望の星であった。伊達藩は切支丹にこれまで寛容であったために,寿庵がそうであるように多くの切支丹が領内にいた。政宗もそろそろ態度を明確にしなければならない時ではあった。

たしかに幕府の出方によっては,伊達藩には過酷な運命が訪れる可能性はあった。宗直は続けた。

「場合によっては伊達は徳川殿とことを構えることになるやも知れぬ」

寿庵をはじめ切支丹たちは,その庇護者を求めて全国を流れ歩いてきた。徳川の天下が固まり,切支丹への圧迫が強まっていく中,切支丹に寛容なのは既に伊達藩くらいのものであった。伊達藩が崩れれば,切支丹が安住できる地は日本国中どこにもなくなることは歴然だった。寿庵もそれは内心覚悟していた。

宗直は続けた。

「万一,徳川殿とことを構えることになれば我らは南部殿に対することになるのは必定」

宗直の話は,南部領も含む旧和賀領に多くいる切支丹や和賀(わが),葛西の一党を,いざというときは伊達方に取り込む必要があると言うことだった。

 

そして,柏山明助(かしやまあきすけ)の名前を切り出した。柏山明助は和賀忠親(わがただちか)の反乱が鎮圧された後に, その功により南部領の和賀岩崎城の城代となっていた。明助も切支丹で,南部藩に仕えていながらも,福原の天主堂でのミサなどに時折出席しており,寿庵は密かに藩境を越えて親交を重ねていた。

明助の名前が出たことで,寿庵は一瞬躊躇したがそ知らぬふりをした。宗直はちらと寿庵の方を窺い話を続けた。

「実はこのことはお館様にも話はしておらぬのだが」

白石宗直のこの言葉に寿庵は緊張した。
かつて,和賀忠親(わがただちか)が政宗の命により捕らえられ自刃したおり,領内で和賀の残党狩りが行われた。忠親と親しい間柄だった宗直は,そのとき謹慎中の身でありながら,忠親の室の兄である柏山明助と諮り,忠親の生まれたばかりの嫡男を匿ったというのだ。

明助は南部方の武将であり,忠親の篭った和賀岩崎城攻めに功があったものだが,情に厚い勇将であった。そしてその忠親の忘れ形見は,一関の山奥で十六歳になっているという。このことを明助から寿庵は聞いてはいなかった。

政宗に秘密裏にこのようなことをした宗直も宗直だが,それを敵将の身で引き受けた明助も明助だった。

「なんということだ」

寿庵は思った。そして改めて宗直と明助に対して信頼の思いを強くした。

白石宗直の話の要旨はこの時代の感覚から言えば,南部に対する調略であった。しかし伊達と徳川が戦うことになれば,切支丹としては重要なことであり,それよりもこれは調略という言葉には似つかわしくない,人の暖かさが寿庵には感じられた。

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