慶長十一年(1611年)十月,後藤寿庵(ごとうじゅあん)はソテロとともに仙台を訪れた。寿庵は,秀吉の奥州仕置きの結果滅亡した葛西(かさい)の一族で,長崎の五島にわたり,切支丹の洗礼をうけてジュアンの洗礼名を受け,姓を後藤,名を寿庵と名乗っていた。切支丹として長く異人とのつながりがあり,スペイン語が堪能で,海外の事情にも通じていた。

二人が仙台に入った折には,城下町はまだ建設途上で,いたるところ新しい木の香りがしていた。壮大な大手門をくぐり,うっそうたる木々の山道を登る。山道を大きく左におれると,右手の山上には巨大な石垣がつらなり,さらにそのそびえたつ石垣の上には,天守閣とみまごうほどの艮櫓(うしとらやぐら)がそびえている。

石垣に沿ってさらに登ると,巨大な隅櫓を東西に配した詰の門があった。それをくぐると,豪壮雄大な本丸御殿が眼前にあらわれた。

 

家士に案内されて本丸御殿の大広間に通された。数人の重臣達が両脇に居並んでいた。その中には,かつて江戸屋敷に政宗の側室の病を診るために訪ねた時の顔見知りもいた。

ソテロはぎこちなく日本風の会釈をしたが,どの重役達の表情も硬かった。幕府から切支丹禁教の噂が出始めている折,厄介ごとを背負い込むことにならないかとの思いが,重役達の表情を固いものにしていた。

しばらくして,政宗が現れ,正面に着座した。

「いつぞやは大変世話になった。礼を申す」
「とんでもござりませぬ。それもこれも神の思し召しでござります」

ソテロはたどたどしい日本語にスペイン語を交えて返答した。

このソテロと政宗のやり取りを寿庵が通訳して話が進められた。数度の話のやりとりの後に,政宗が言った。

「ところでソテロ殿はこの政宗に願いの儀があるとのことだが,申してみよ」
「どうか仙台の領内での布教をお許しいただきたく,お願いに参じました」

ソテロが答えた。

重役達はみな窺うように政宗の方を見た。

「許す。委細は重役どもとはかるがよい」

即断におどろき平伏するソテロと寿庵を残し政宗は席をたった。

 

ソテロはイスパニアの貴族の出身だった。フランシスコ会の宣教師だったが、切支丹としての知識のみならず、鉱山技術、土木技術、医学薬学など多方面にわたり博学だった。当事、切支丹への迫害はまだ少なく、ソテロは徳川家康の許しを得て病院と礼拝堂を建て、医療活動を行いながら切支丹の布教を行っていた。

寿庵は長崎で切支丹信徒からソテロのことを聞き、江戸に上り、ソテロの病院で働きながら、ソテロから様々な西洋の技術を学んだ。ソテロの病院には病に苦しむ貧しい者達が訪れ、西洋医術による治療を受けた。始めは切支丹バテレンと警戒していた江戸の者も、その治療を受けた者から回復の様子などを聞き、その評判は瞬く間に江戸中に広がった。

そのような時、評判を聞いた伊達の江戸屋敷から声がかかり、伊達邸に赴くことになった。伊達政宗の側室の一人が重い病という事だった。幸いなことに西洋の薬の効があり、その病状は次第に回復し、一ヶ月ほどで床上げすることが出来た。

 

伊達政宗は、その間二度ほど寿庵とソテロを書院に招き、海外の事情などを尋ねた。好奇心はなはだ旺盛で、多方面にわたって質問をした。特に質問が多かったのは、当時チリで産出されていた火薬の原料の硝石のことと、エゲレスとイスパニアの治世の違い、またイスパニアの無敵艦隊の敗北の分析については鋭い質問が多かった。

寿庵は内心舌を巻いた。どこからこのような知識を得ていたのかは解らないが、その知識は的確だった。イスパニア艦隊の敗北の事、プロテスタントの事など、ソテロもその返事には大いに困り果てていた。当然の事ながら、自国イスパニアやカトリックの側に立った弁明に終始していたが、政宗はそれに無批判に同調することはなかった。

 

ソテロと後藤寿庵は仙台に屋敷をあてがわれ逗留した。政宗の要請により,布教活動のかたわら,ヨーロッパの最新の鉱山,治水技術の指導,そして洋風大船の建造の計画にも携わっていた。

翌年,牡鹿郡の呉壷で洋風大船の建造を行うことになり,寿庵はその計画の重要な部分を任されていた。その現場に政宗が視察に来た。

船台が着工したばかりではあったが,図面はその大船の全体像を浮かび上がらせていた。政宗は興味深そうにひとしきり見回り寿庵にもなにかと質問をした。政宗の西洋知識への造詣は深いものがあった。

 

一通りの質問の後に,少し間があり,政宗は言った。

「そちは葛西の者と聞いたが」

寿庵は一瞬緊張した。寿庵は,豊臣秀吉の奥州仕置きによって,葛西がその所領を没収されてすぐに,学問のために長崎に出た。しかしその後の葛西一族の運命はもちろん知っていた。

政宗は言葉をつないだ。

「わしは葛西のかたきぞ」

寿庵は答えた。

「神の御心と思うております」

寿庵は,真実そう思っていた。切支丹に帰依してからそう思えるようになった。葛西一族をなで斬りにした男とこのような形で会い,このような話をしている。これが神の御心でなくてなんであろうか。

それからしばらくして,寿庵は一門筆頭格の石川昭光(いしかわあきみつ)に呼ばれ,水沢福原の地に一千ニ百石を与えられた。

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