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四月初めの胆沢金ヶ崎の地は,まだいたるところ雪に覆われていた。その日の夕方,ゆったりと馬を打たせながら,政宗の嫡男,伊達忠宗(だてただむね)が狩装束の姿で兵とともに金ヶ崎に到着した。

宗利は政宗の言葉を思い出していた。

「かの地は,そちや,忠宗の始まりの地」

震えが止まらなかった。なにか、とてつもないことが始まろうとしていた。

朝早く,一関から一門筆頭の石川昭光が金ヶ崎に到着した。すぐに軍評定が行われた。金ヶ崎城の本丸の奥まった広間がそれに当てられた。

厳重な警備の中,兵達は遠ざけられた。兵達の遠いざわめきの中,かすかに北上川のせせらぎが聞こえた。忠宗はすでに伊達家嫡男が使用する鎧を身に着けていた。みな押し黙っていた。

まず,石川昭光がしわぶき声ながら凛と通る甲高い声で口火を切った。

「この度の戦の相手は徳川殿である」

場は水を打ったように静かなままだった。将たちの多くは,それなりにこの日のことを予測していたのかもしれない。

かまわず昭光は続けた。

「我らの当面の相手は南部殿である。この度の戦は細部にわたって,政宗公,忠宗公を始め,御重役達の間で既に決められておる。これに違背することは一切許さぬ。そう心得よ」

「またこの南部攻めには,北から津軽信牧(つがるのぶひら)殿が同時期に攻め込む手はずになっておる」

これを引き取り白石宗直が南部攻めの概要を話し,陣ぶれを行った。南部攻めは明後日未明に決した。

 

第一軍は宗利に当てられた。宗利は三年前の政宗の言葉から,この日の来ることを予期し,軍馬を育て兵達の訓練に余念はなかった。

金ヶ崎の西に広がる駒ヶ岳や焼石岳の山麓で馬を育て,三百騎の騎馬鉄砲隊を編成していた。この騎馬鉄砲隊は,これまでの騎馬槍隊の兵装を改めて,鉄砲をそれぞれに装備して機動性に破壊力を合わせ,長槍を短槍に換え接近戦,追撃戦に備えたものだった。

第一軍は,宗利の三百騎の騎馬鉄砲隊と足軽鉄砲隊ニ百を中心にして,槍隊六百,弓隊四百,雑兵三千,計四千五百として編成された。宗利の第一軍は,その機動力を活かし,まっしぐらに,かつて斯波(しば)氏の居城であり高水寺(こうすいじ)城と呼んだ郡山城を急襲し,城方が迎え撃つ準備を整える前にこの地を確保することだった。

 

第二軍は白石宗直で騎馬槍隊三百,足軽鉄砲隊ニ百,槍隊六百,弓隊六百,雑兵三千六百,計五千三百で,第三軍と連携し,花巻城を落とすことであった。

第三軍は,伊達忠宗で騎馬槍隊五百,足軽鉄砲隊ニ百,槍隊一千,弓隊六百,雑兵四千九百,計七千ニ百で,第二軍と連携し花巻城を落とすことと兵站線の確保であった。

第四軍は茂庭良元(もにわよしもと)で,騎馬槍隊百,足軽鉄砲隊ニ百,槍隊八百,弓隊四百,雑兵三千の計四千五百で,気仙道(けせんどう)から入り遠野の横田城を確保し遠野街道,釜石街道の確保と兵站の確保であった。

その他別働隊として,和賀義弘に足軽鉄砲隊五十,を含め兵五百が与えられ,旧領の家臣や領民を合わせておよそ一千の兵力だった。第二軍,三軍と連携をとりながら和賀の旧領城館の確保と旧領の慰撫の任が与えられた。

また万一の時の兵の収容に備え,一関城には石川昭光の軍一千が入城していた。総勢ニ万余の軍が十三日の未明には一斉に動き始めるのだ。

 

郡山城はここからおよそ十三里先であった。馬で駆ければ一日の行程ではあった。しかし途中には幾多の南部の城館があり,どれだけの頑強さで立ちはだかるかはわからなかった。

南部領に放った間者から次々と報告は入っており,万一の伊達勢の動きに対しての備えとして,花巻城にニ千ほどの兵が入ったほどで,今のところ,例年の狩のときの警戒と異なることはなかった。

この戦は,恐らく政宗は三年以上も前から練り上げていたはずのもので,その比類なき慎重さの中で様々な手を打っていることは間違いないと思われた。津軽信牧の南部領への同時侵攻もその中の一つであろう。しかし今回はこれまでのどの戦いとも違う,天下への戦いなのだ。何が起こるかわかったものではなかった。いよいよ明後日未明に始まるのだ。

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