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元和四年(1618年)四月十一日,留守宗利(るすむねとし)が預かる胆沢金ヶ崎城に続々と兵が集まっていた。

宗利が一関からこの地に移ってきた翌年からこの時期には,茫漠と広がる焼石岳山ろくのご猟場で狩が行われていた。もちろん軍事演習も兼ねたものであり,この地とは藩境を接する南部藩の対応を見極めるものでもあった。

しかし,この年は少し様子が違っていた。兵達の様子にはこれといって例年と変わった様子はないのだが,副将格の白石宗直(しろいしむねなお)を始めとした重役達に,狩の前に良く見られる,子供じみた高揚感はなかった。

また,これまでの狩では見かけない武将の姿もここかしこに見られた。特に切支丹として謹慎同然となっていた後藤寿庵(ごとうじゅあん)や,白石宗直が率いてきた隊の中に和賀一揆以来志田松山にかくまわれていた和賀義弘(わがよしひろ)の姿があったことも常には考えられないことであった。

また,一関には一門の筆頭格の石川昭光(いしかわあきみつ)が六十八歳の老齢をおして,手勢一千ほどを引き連れ角田から遠路入城していた。宗利は

「いよいよだな」

と小さく自分に言い聞かせるように呟いた。

 

三年前の慶長十九年(1614年),宗利は大阪冬の陣において奮戦するも,伊達藩内の一門の立場でありながら,僅か六十数名の兵しか引き連れていかなかったことに対して,主君政宗から強く叱責された。

そして父政景(まさかげ)が築いてきた一関の地からこの金ヶ崎の地へ知行を減らされ移された。このことを宗利が政宗から直接言い渡されたのは,大阪夏の陣が終わって間もなくのことだった。

部屋に通されると,伊達成実(だてしげざね)と政宗が酒を酌み交わしていた。成実は政宗の幼いときからの悪童仲間であった。政宗とは幾多の戦をともに戦ってきた絆の強さがあったが,政宗は彼ら若輩者たちにとっては神のごとくの存在であった。

 

政宗は手招きし

「ここに来て座れ」

と声をかけた。宗利の膳が,政宗の膳の脇,伊達成実の向かいに用意されていた。きつい叱責を受けると覚悟していた宗利には以外だった。政宗はさらに声をかけた。

「何をしておる。早くこちらへ座れ」

宗利は覚悟を決めて,多少無礼なほどにずかずかと政宗のわきに座った。政宗は満足そうに杯をとり,

「まずは飲め」

と差し出した。

その杯を宗利は辞するべきか迷う心を振り払い,政宗が手ずから注いだ酒を一気に飲み干した。伊達成実はこれを目を細めて眺めて言った。

「おう,父上とそっくりじゃな」

「まことに」

「ところで,金ヶ崎の地は知っているな。どのように思う」

成実が言葉をつないだ。政宗は手酌で酒を汲んだ。

宗利は「あっ」と思ったが気付かないふりをして,成実の言葉に答えた。

「かの地は今は荒地が多く茫漠とした原野が広がっておりますが,手を加えれば豊穣の地に変わります」

 

政宗が杯の酒を飲み干し唐突に言った。

「そちに鉄砲五百を与える。馬を肥やせ」

宗利は一瞬,酔われたのか,と思った。しかし短く

「はっ」

と礼をした。鉄砲五百は,伊達軍の中でも群を抜いたものであり,成実ですら三百しか持っていなかった。現在宗利の保持する鉄砲百と合わせて,六百の鉄砲は異様であった。

成実が言った。

「最近,かの地に赤熊が出没し領民が難儀しておると聞いておる。しばらくかの地を御猟場とするぞ」

赤熊が出没するなどということは初耳だった。そのような話があれば,一関の自分に聞こえぬはずはなかった。

「宗利」

政宗が声をかけた,父に似ている,と一瞬思った。

「かの地は,そちや,倅の忠宗(ただむね)の始まりの地とこころえよ」

その後,座は出羽合戦の折の、上杉の直江兼続(なおえかねつぐ)勢への父政景の追撃戦の話に終始した。最後に政宗は宗利に言った。

「冬の陣での戦ぶり,見事であった」

宗利には亡き父の言葉に思えた。

 

父政景は伊達政宗の叔父であったが、留守家に養子として入り、その後一貫して伊達家と協力しながら南奥羽一帯を駆け巡った。伊達軍の中核として、政宗や他の重役からも信頼は篤かった。しかし、小田原には、政宗の不在の間の押さえとして参陣しなかった。そのため留守家の所領は没収され、政宗より一関に二万石を給されるまで、その居所は安定していなかった。

宗利が一関に入ったのは、関ヶ原の戦いも終わった慶長七年(1603年)のことだった。城内のいたるところで普請が行われていた。平服姿の父が出迎えた。平服姿の父は珍しかった。家中の者たちは、戦の時の豪勇無双の父の話をよく聞かせてくれたが、宗利にはとても信じられなかった。たまに会う父は、遅く生まれた子供ということもあってか、宗利たちにとっては子煩悩な父だった。

 

一関へ着いた翌日、宗利は父政景に連れられて、城の本丸に当たる釣山(つりやま)の頂まで上がった。頂には千畳敷と呼ばれる平場があり、ここからは一関の地が一望の下に見渡せた。政景は尋ねた。

「この城は始めに誰が築いたか知っておるか」

「はい、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)将軍と聞いておりまする」

「おう、利発な子じゃ」

父政景はよく、家中の者の前でも宗利を少し大仰に褒めそやす。十三歳の宗利にはそれが嫌だったが、周りに誰もいない時には素直に嬉しかった。

留守家中に、佐藤重信(さとうしげのぶ)という老人がいた。宗利は奥羽に伝わる伝承をこの老人からよく聞いていた。この重信は、その祖が嘘かまことか、源義経(みなもとよしつね)公に従った、佐藤継信(さとうつぐのぶ)、忠信(ただのぶ)兄弟であるということが自慢だった。重信は、奥羽の各地に残る田村麻呂将軍や、平泉や義経公の伝承には事の外詳しかった。

宗利は、よくこの重信に話をねだった。その話の多くは心躍るものだったが、結末はいつも悲しかった。

「何故、重信の話はいつも悲しいのじゃ」

ある日、宗利は尋ねた。

「それは奥羽の地が悲しいからでございましょうかな」

重信は答えた。

 

釣山の千畳敷から、政景は宗利に北の彼方に光っている北上川の方を指差し言った。

「あの辺りが、かつて藤原清衡公が三代の栄華を築いた平泉じゃ」

この一関城から北方、一里ほど先には、かつて柳御所、伽羅御所を中心とし、藤原清衡(ふじわらきよひら)、基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)の三代が築いた栄華の都があった。当時は京都、大阪に次ぐ町で、北は下北から南は白河の関までの奥羽国の中心地だったのだ。

この栄華の都は、鎌倉の源頼朝(みなもとよりとも)公の率いる二十七万の大軍に攻められ、徹底的に破壊された。その御所の跡は今は草の生い茂る荒野になり、かつての栄華はかろうじて中尊寺の光堂に見るくらいのものだった。

父政景は続けて言った。

「あの地に、千代(ちよ)の都を築き、お館様や、京の親王様をお呼びして、この地でそれを守るのがわしの夢じゃ」

宗利は、父は不思議なことを言うと思った。伊達が平泉を守るのなら、その地は南部との国境に近い、水沢か金ヶ崎であろうと思った。

その四年後、父政景は没した。

宗利が一関から金ヶ崎への移封を最初に告げられた時、父のこの時の姿がよぎった。政景は、一関を留守の本領の地と定め、この地にしっかりと留守の証を残そうとしていたと宗利には思えた。その思いを引き継げなかった自分を情けなく思った。それが悲しかった。

しかし宗利は、この日の政宗の言葉に、父政景の思いを一歩進めることが出来るかもしれないと言う思いを抱いた。

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