2013/08/20

 

歴史散策⇒弘前昇天教会聖堂

弘前の明治建築には、教会建築もまた多くある。これは、江戸時代の初期に、西国大名の宇喜田家中や上方の切支丹たちが津軽の地に流されて来た事と無関係ではないだろう。

津軽二代藩主の津軽信牧も切支丹だったという説もあり、小説「蟠龍雲に沖いる」では、仙台藩領に逃れていた、宇喜田家中きっての剛の者である明石全登の子の明石内記が、津軽の切支丹を糾合し、南部領を北から侵攻する設定とした。

江戸時代初期には、比較的切支丹に対して寛容だった仙台藩や津軽藩に切支丹が多く流れ着いたが、その後の一段と厳しい弾圧の中で、秋田藩や南部藩や蝦夷地の金山労働者として逃れ身を潜めたようだ。津軽ではそれが明治期に入り切支丹禁令が解かれると、堰を切ったように面に現れたものだろう。

明治期には各地にキリスト教会が建てられたが、その多くは隠れ切支丹が表に現れてのものなはずだが、それにしても弘前の明治期教会の数は群を抜いて多いような気がする。恐らくは明治に入り、洋風の文化を他の地域よりも積極的に取り込んだからだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です