2013/06/10

 

歴史散策⇒ダンブリ長者屋敷跡

この日は朝から天気も良く、滝ノ沢峠や発荷峠では雲の湖を眺め、気分は絶好調だった。しかし今回の旅もこの日が最終日で、帰り道の長さが気になり始めた。日常の世界への帰り道だ。日の高い内に、少しは帰り道の距離を縮めないと、夜の道がきついことになる。それでも、鹿角から八幡平にかけては、このダンブリ長者の伝説があり、これを回らないわけにはいかない。

ダンブリ長者伝説は、三湖伝説とともに、非常にスケールの大きい伝説だ。伝説そのものは、「長者伝説」や「養老伝説」に分類されるたわいもないものにも思えるが、その時代背景は古墳時代後期にあたるものだ。公式的な仏教伝来以前の話でありながら、この地方一帯に広がる大日堂の由来にもなっている。また、その時代は、安倍比羅夫の蝦夷制圧の前であり、この地方一帯は、まだ大和朝廷の力が及んでいない蝦夷の文化圏であったはずだ。

国道282号線から北へ入り4kmほど走った。道は林道状になり、舗装が切れる奥まったところで、唐突に「長者屋敷跡」の看板があった。ことさらな施設はないが、それなりに整備されている。奥へ進む道をたどっていくと、そこには酒が湧き出していたという伝説の清水跡の小さな標識があった。たったそれだけのものだった。

この「長者屋敷跡」は、地域おこし的な一環から整備されたものだろう。史跡として考えるにはその根拠も乏しいものだろう。しかし秋田の大館から鹿角、そして岩手の八幡平にかけてのダンブリ長者伝説の中心的な地は、この八幡平市の田山であり、この地は、そのイメージを膨らませるための地として考えれば良いのだろう。

大館市から八幡平市にかけての地域のほぼ中心には大湯環状列石があり、かなり古い時期から独自の文化圏を持っていたことは確実である。ダンブリ長者伝説では、長者の娘が継体天皇の妃になったとあり、日本書紀に記載されているという、みちのく出身の継体天皇の妃がそれにあたるとも考えられる。

そう考えれば、「ダンブリ長者」とは、大湯環状列石からつながる、この地域の蝦夷の長であり、その娘が継体天皇の妃となったのは、中央政権が、蝦夷勢力を取り込もうとする証だったのかもしれない。継体天皇の出自は「越」と関わりがあり、その後、「越」の安倍比羅夫が、秋田の能代から米代川を上り蝦夷を制圧したこととも関わってくるのかもしれない。

いずれにしても真実が解き明かされることはないだろうが、それは確実に伝説の中にあるのだろう。