2013/06/07

 

この日は、今回の仕事の最終日で、天童、新庄、鶴岡、酒田とまわり、明日からはフリータイムで、秋田から青森に抜ける予定だ。この日、仕事は立て込んではいたが、日の長いこの季節、仕事までの時間歩き回らない手はない。寒河江市内を数ヶ所まわる予定だ。

何箇所か回った後、陣ヶ峯戊辰古戦場に向った。日本最後の内戦である戊辰戦争は、私の散策の大きなテーマの内の一つである。時代が新しいこともあり、各地にはまだ生々しく伝承が残っている。しかし奥羽の各地域は、奥羽越列藩同盟に属し朝敵とされたためか、現代につながる歴史の中で往々にして卑屈である。

特に私の住む仙台では、東北戦争を中心的に指導した大槻磐渓や但木土佐、玉虫左太夫らを正しく認識している人は非常に少ないように感じている。彼らが思い描いた開国、富国強兵は、玉虫左太夫らが残した、膨大な資料などを参考にして、新政府により実現されていった。つまり、戊辰戦争の内の東北戦争は、薩摩藩、長州藩の私怨以外には戦う理由のない戦争だった。

この寒河江の地での戦いは、仙台藩、米沢藩は降伏し、会津鶴ヶ城も開城間近の絶望的な時期に起きた。この寒河江で戦ったのは庄内藩兵と桑名藩兵の東軍と、西郷隆盛が率いる西軍だった。東軍は、この地から約4km南東の長岡山で戦い敗れ、この地に退き再度陣を敷いた。

地形的に考えてこの地だろうとは思ったが、標柱を見つけることもできず確信が持てず、しばらく車で右往左往した。しかし幸運なことに、飛び込みで尋ねた家の方が詳しい方で、わざわざ標柱のあるところに案内していただき、この地に伝えられる生々しい戦闘の様子を教えていただいた。

この崖の上から、庄内藩兵と桑名藩兵は橋を渡ろうとする西軍を狙撃し果敢に戦った。しかし多勢に無勢、兵力の差はいかんともしがたく、別ルートをとった西軍の一隊に横腹を突かれ、六十里越と肘折への難路の二手に分かれ庄内に向けて壊走したと云う。

うれしかったのは、この地に伝えられる話が、生々しくも淡々としており、西軍をそしるわけでもなく、この地で戦い戦死した兵達に対して、憐憫の情を感じさせるものだった。

出来得れば、このような伝承が、根拠のないものと切り捨てられることのないように、記録しておきたいものとは思っているのだが…。、

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