2013/04/26

 

歴史散策⇒善知鳥崎古戦場

七戸から夏泊半島を巡り浅虫に抜けた。行程は順調だったが、天気は生憎で、小雨交じりの天気になっていた。浅虫にはどうしても訪れたい場所があった。それがこの善知鳥崎古戦場だった。吾妻鏡にも載っている、平泉の滅亡後、大河兼任が最後の抵抗をした地と云う。

北奥羽の歴史の面白さは、一般的な教科書的な歴史とはかなり異なるものが見えてくることだ。「良い国つくろう鎌倉幕府」で、すんなりと鎌倉時代が訪れたわけはないのだ。平泉勢力は、平泉陥落後も、各所で叛旗を翻しそれらが制圧された後も様々な形で関東武士や鎌倉政権との軋轢を繰り返しながら、その政権に組み込まれていったのだ。

それらのいわば敗者側の歴史が、多くの伝説となって時代の縦糸に、細かく織り込まれるように残っているのだろう、恐らくは義経北行伝説もそのような中からのものだろうし、その後の十三氏や安東氏や蛎崎氏らを巡る戦国期まで続く歴史が、平泉からの流れにあるといっても過言ではないだろう。この善知鳥崎古戦場を巡る歴史は、それらの始まりともいえる物だ。

現在、この地はトンネルで簡単に通り抜けられるようになっている。車をトンネルの入り口の廃道部に停め歩いた。かつての道は、岬の先端を回りこむようにあり、その中間点には明治天皇行幸の碑が立っている。岬は切り立った崖が直接海に落ち込んでおり、古くは潮が引いたときに岩場を跳ねて通るような道だったろう。

この地での戦を思い描けば、それはまさに後年の鎌倉幕府が滅亡したときの、稲村ヶ崎の話を思い出した。この岩場の道を、鎌倉勢が波を避けながら一人ひとり渡っていき、それを大河兼任の兵達が弓を射て、あるいは槍で突き返す、そのような戦だったのだろう。

今は、さほど長くないトンネルを走ればあっというまにこの岬を抜けることができる。しかしこの道は、歴史好きの方々には、一度は車を降りて歩いてもらいたいものだと思った。

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