2013/01/01

 

鮎川を離れ、女川に向った。女川には震災後2週間ほどだったろうか、ガソリンが手に入るとすぐに慰問品を車に積んで訪れた以来だった。その後の復興の進捗が気になっていた。

その時には、まだ町中瓦礫だらけで、自衛隊の方々が必死の作業で開いた道が、瓦礫の山をくぐるように通っていた。さすがにその瓦礫の山はなかったが、ただそれだけだった。何もない、建物の基礎の跡を残した更地が広がっているだけで、港の岩壁の近くで、かろうじて盛土作業が始まっているようだった。鮎川と同様に、住民の姿はなく、生活の痕跡は全くない。

すでに、震災から2年近くたっているのだ。その間、復興予算はついているのにも関わらず、少なくとも鮎川やこの女川の町を見渡した限り、復興が進んでいる様子はまるでない。その間、復興予算は沖縄の道路や、被災地とは程遠い役所の補修工事などに使われている。何が「絆」か。

更地の中に、何のためか、土台からひっくり返った、鉄筋コンクリートの建物が2棟ほど、ひっくりかえったままになっている。その写真を撮ろうと近づいて行って気がついた。更地の中に小さな祭壇が置かれ、花が手向けられている。銀行があったようだ。心臓をわしづかみされたように、胸がドクンとなった。ここで多くの人が亡くなったのだろう。

人の姿をさがした。このままでは帰れないような気持ちになり、人の姿を探した。遠くでかすかに笛と太鼓の音が聞こえる。車を音の方向に走らせたが、音は聞こえなくなってしまった。しばらくうろうろしていると、今度はもっとはっきりと比較的近くで聞こえた。

地域の方々が、太鼓を軽トラックの上に乗せて、5、6人で獅子頭を持ってまわっている。涙が出るほど嬉しかった。笛はテープで流し、軽トラの上の太鼓を叩き、かろうじて残った丘の上の家々ををまわっている。車を空き地に置いて、子供のように獅子舞の後を追いながら写真を撮った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です