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2013/01/01

あの大震災以来、津波で大きな被害を受けた海岸近くには、めっきり出かけることは少なくなった。復旧、復興は遅々として進まず、今は何もないかつての人々の暮らしの跡を見ると、胸が痛くなるばかりだ。

実は、この日に撮った写真は、胸苦しさを覚えながらムービー化し、自分のサイトに掲載したがそこまでで、この取材日記に記録することもつらく、ようやく5月に入ってこの記事を書いている始末だ。

この日は、新年を迎えるにあたり、その復興の遅れを伝える必要もあると強く思っていたこともあり、牡鹿半島の先端で初日の出を拝み、その帰途、鮎川、女川の現状を写真に収めようと真夜中、車を走らせた。女川に入り、真っ暗闇の「荒野」を突っ切り半島部に入った。

夜の半島部の道に、あちこちに鹿の目が光り、鹿達が我が物顔に道路に群れている。多くの人々がこの地を離れ、この夜の道を走るものも少なくなったせいだろう。牡鹿半島は、鹿達にとってはパラダイスになっているのかもしれない。この地では今は鹿達が主役になっているようだ。

鹿達に遠慮しながら走り、ようやく半島の先端部に着き、薄明かりの中、三脚を出し、ポイントをさがし、カメラを用意した。金華山が驚くほど近くに黒い影を見せている。薄闇の中に、巨大な津波を運んだ海が茫漠と広がっている。

明るさが増すにつれて、この地域の人々だろうか、初日の出を拝みに集まってきた。天気はすっきりと晴れているが、外気は防寒服を着ていても切るような寒さだ。

東の空が一際赤みを増し、太陽の先端がはるか海の彼方に頭を出すと、一気に明るさが増した。息を呑むほどに、憎たらしいほどに美しい。しかしこの日の出を見る方々に、どよめきや、まして浮かれた叫び声などはなく、多くの人々が手を合わせた。私もシャッターを切って、手を合わせた。

このとき、手を合わせた人々の気持ちは同じだったはずと思う。まずは多くの犠牲者の冥福を祈ること、そしてこの地の復興への思いだったろう。新年に向けて、私的な欲望の成就を願った者はいなかったろうと私には思えた。

日も上り、三々五々人々が立ち去って行く中で、一組の若いカップルが寄り添い、話するわけでもなく上っていく太陽を眺めていた。それは、この地の復興のシンボルにも思え、後ろからそっとシャッターを切った。

日の出を撮り終えて、岬から鮎川の集落に下りてきた。震災以前に、ホエールランドなどを取材し、古い建物なども写真に撮っていたが、震災後は初めての訪問だった。予想していたとはいえ、崩れた建物がわずかにあるだけで、全くの「荒野」と化していた。

住民たちは誰もいない。わずかに金華山に渡る船の案内人がいるだけで、生活の動きはまるでない。住民達は恐らく付近の仮設住宅などで暮らしているのだろう。瓦礫は撤去され、人々の暮らしの痕跡すらない、まさに「荒野」だ。

かつてこの鮎川は、捕鯨の町として繁栄を極めた。しかしそれは、ウサギを食する文化の民族による、クジラを食する文化の民族に対する、一方的とも言える「動物愛護?」の民族差別により、この町の産業は奪われた。それ以降、この町は、調査捕鯨によるささやかな「鯨文化」の継承と、金華山観光とでつないでいたが、それが津波で根こそぎにされた。

この地の「鯨文化」の象徴として、文化施設の「ホエールランド」があったが、それも今は廃墟と化していた。捕鯨禁止以降、僅かに残った産業手段もことごとく流され、この地の人々の多くは「流浪の民」と化しているのだろう。

明るい元旦の朝、気持ちは限りなく暗くなってしまった。この地に復興の日は来るのだろうかなどと思いながら「荒野」に車を走らせていると、数人の住民を見かけた。この地で初めての住民の姿だった。

車を停めて話をうかがうと、家族での元朝参りだと言う。見ると少し小高い丘に神社が見えた。許しを得て、遠くからその姿を撮らせていただいた。この方々は、神前で手を合わせ、家族の無事を喜び、復興を祈ったのだろう。少し光が見えた気がした。写真を撮り終えた後、私も鳥居の前で手を合わせ、この地の復興を祈った。

鮎川を離れ、女川に向った。女川には震災後2週間ほどだったろうか、ガソリンが手に入るとすぐに慰問品を車に積んで訪れた以来だった。その後の復興の進捗が気になっていた。

その時には、まだ町中瓦礫だらけで、自衛隊の方々が必死の作業で開いた道が、瓦礫の山をくぐるように通っていた。さすがにその瓦礫の山はなかったが、ただそれだけだった。何もない、建物の基礎の跡を残した更地が広がっているだけで、港の岩壁の近くで、かろうじて盛土作業が始まっているようだった。鮎川と同様に、住民の姿はなく、生活の痕跡は全くない。

すでに、震災から2年近くたっているのだ。その間、復興予算はついているのにも関わらず、少なくとも鮎川やこの女川の町を見渡した限り、復興が進んでいる様子はまるでない。その間、復興予算は沖縄の道路や、被災地とは程遠い役所の補修工事などに使われている。何が「絆」か。

更地の中に、何のためか、土台からひっくり返った、鉄筋コンクリートの建物が2棟ほど、ひっくりかえったままになっている。その写真を撮ろうと近づいて行って気がついた。更地の中に小さな祭壇が置かれ、花が手向けられている。銀行があったようだ。心臓をわしづかみされたように、胸がドクンとなった。ここで多くの人が亡くなったのだろう。

人の姿をさがした。このままでは帰れないような気持ちになり、人の姿を探した。遠くでかすかに笛と太鼓の音が聞こえる。車を音の方向に走らせたが、音は聞こえなくなってしまった。しばらくうろうろしていると、今度はもっとはっきりと比較的近くで聞こえた。

地域の方々が、太鼓を軽トラックの上に乗せて、5、6人で獅子頭を持ってまわっている。涙が出るほど嬉しかった。笛はテープで流し、軽トラの上の太鼓を叩き、かろうじて残った丘の上の家々をまわっている。車を空き地に置いて、子供のように獅子舞の後を追いながら写真を撮った。